M・ONOUEの昨日・今日・明日 ファイト直言

 
 

果たして今回取り上げる「新しい歴史教科書」がタレント本か? 
 
タレントとは本来、才能を指す言葉であり、
そして、それを伝える芸や、術を持つものである。
さらにタレント本とは、その知名度に便乗する書物である。
 
ある意味では「新しい教科書」の執筆者の一人、
小林よしのりは、時節柄、物議を醸すアジアで最も有名な日本人であり、
今や漫画家でありながら台湾から入境禁止まで申し渡された
思想的要注意人物の過去を持ち、しかも中国では
“臭名”と呼ばれるほどの“悪名”で呼ばれる大スターなのである。

そして日本の若者には
あのヒットギャグ漫画「おぼっちゃまくん」の作者であり、
愛称「よしりん」でもある。 

そんな知名度を利して、
あの「ゴーマニズム宣言」に端を発し
若者に「戦争論」だの「台湾論」だの「新しい教科書」だの
アジア規模で物議をかもすウヨク思想本を売り込む
新手の“タレント本”作者なのだ。
 
「飲み屋で宗教と野球の話はするな」
と子供の頃によく言われたものだが、テレビ界に身を置くと
「小林よしのり本が面白い」
「ゴーマニズムは面白いマンガだ」と普通に話するのも、
ある種のタブーであり、もはや切り出すには勇気がいる。

その話題だけで確実に一癖ある面倒臭い奴だと思われる。
ある種の信条に関わる挑発行為に思われることすらある。
それどころか、
ある種の知識や専門的な勉強が必要な議論、
論争に巻き込まれる可能性もある。

もしかしたら、一時の台湾での小林のように俺も
テレビ局の「ブラックリスト」に載ってしまうのではと心配になる。
小林の天敵である、テレビ朝日や朝日新聞社からは、
未来永却、お仕事の依頼がこなくなりはしないかとさえ思われる。
皮肉にも、かってはテレビ朝日で
「おぼっちゃまくん」が放映されてたぐらいなのに。

絶大な「知名度」と共に小林よしのりに対する
「世間」のシソウ家としての小林への偏見、反発、無視、誤解は、
根拠が曖昧なまま、想像以上に根強い。  
本来、本職は漫画家なのに‥‥。

なのに、多くの私生活上のデメリットを振り切り、
これだけの「世間」をまき込み、
がむしゃらに「敵」とムキになって闘ってしまう。
まるで、己の戦う姿を見てくれと言わんばかりの大向こうの切り方‥‥。

思想はともかく、時として俺は、小林よしのりが、
あのアントニオ猪木とダブって見えることがある。

かつて猪木は「過激なプロレス」と作家の村松友視に定義され、
自らのストロングスタイルを理論武装して、
自分の戦線をより先鋭に屹立させていった。

「こんな試合をしていたら10年もつものが1年で終わってしまう」
と言いながら、全ての試合に完全燃焼を心掛け、
業界の異端児から一躍カリスマ化していった。
猪木の一人勝ち、唯我独尊路線は当時、
プロレスファンに賛否両論を起こしながら、ジャンルを磨き、
偏見の強い「世間」という大きな「敵」と闘ってきた。
 
理想を求めて猪木がプロレス団体を渡り歩いたように、
小林の「ゴーマニズム宣言」も週刊誌の「SPA!」から
隔週誌の「SAPIO」へ発表場所を変えた。
この雑誌、移転の結果どうか。
それは確実に世間との窓口を狭くし、思想性を鮮明にし、
読者を選ぶことになったハズだ。

「ゴー宣」の語り口はますます激化を増し、
肥大化した自我の暴走は、誰も止められない。
問題作「戦争論」を経て、もはや、退路を断った
「一人真珠湾攻撃」状態なのである。
連載の中で小林に楯突く者、噛み付く者は、
ことごとく血祭りにあげられた。
一刀両断である。

そりゃそうだ。
なにしろ「ゴー宣」は「小林よしのりが主人公の物語」なのである。
傲慢に夜郎自大に自画絶賛するのは、この漫画の基本設定である。
ここを指摘して、ことさらに嫌悪するのは
「プロレスは暴力だから嫌い」などとと言っているようなものである。
当然、登場する多くの論客は、
小林を際立たせるための雑魚にしか描かれない。 
言い換えれば彼は、
リングの上で相手と対峙し、四方の観客に闘いを見せつけながら
自らの独善性を見せる千両役者であり、
エンタテインメントを基調にしたプロレスの天才、
猪木そのものであろう。
 
かつて小林はオウムに殺されかけ、
薬害エイズ訴訟で最前線に立った。
そして、その運動家たちの真実を見るや、
“情”が続かなくなったと、きびすを返した。
これで終わった‥‥。
あの時点で「小林の物語」として、
あれを超えるテンションの高さは想定できなかったと思う。

アントニオ猪木も同じである。
初期のタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセンという好敵手の後、
これ以上のテンション、これ以上の宿敵が
果たして想定できたでであろうか。
ところが、その後もアンドレ・ザ・ジャイアントや、
ハルク・ホーガン、ビック・バン・ベイダ―など大型レスラーと対戦し、
後に総合格闘技の先鞭となった異種格闘技路線へ飛び込み、
さらにはモハメット・アリ戦を実現。
そして政界出馬、国家規模の事業への投資、莫大な借金、
そして最後には、不本意なスキャンダルにさえも塗れていった。
自らの物語りに巻き込まれ、汚名すらも着せられながら、
明らかに、より自分より強大な敵へと無謀にも向かっていった。
 
「ゴー宣」は「新ゴー宣」と装いを変えて、
10巻目にして「台湾論」「新しい教科書」へと、
国際問題にまで飛び火した。

一部には冷めた視線がありながらも、
戦線が下火になるどころか、拡大するばかりである。
傍から見ても「しんどい」作業としか言いようが無い。
しかし、小林のさらなる強敵に対峙し
「観客を前に裸でリングで戦う姿勢」は衰えない。

これらの話題に飛び込む境地は、間違いなく渦中に栗を拾う行為である。
そして台湾で発売された「台湾論」が
台湾のたった15%の支配層、中国統一派の圧力で、
小林が「台湾入境禁止」になった。
この時、金美齢氏が小林のために
「まるで国家の責任をとるかのような覚悟で」小林擁護のために
台湾に乗り込む様は、まさに湾岸戦争の最中、人質を助けに
イラクへ乗り込んだ猪木議員を髣髴させ、
猪木イズムあふれる一節である。

さて「新しい教科書」の肝心の内容についてだが、
こちらのほうは、カーツ佐藤なども指摘する通り、
満を持して読むには、確かにつまらない“話題作”だ。
しょせんモ教科書”の枠組みの中での修正と妥協の産物であり、
本来の歴史を語るドラマ性は物足らない。
 
にもかかわらず、今や65万部のベストセラー。
しかも、今や外交問題すら孕む、この大騒ぎ。
しかし思うに、新聞を読んだところで
「台湾論」「教科書問題」の本質は、てんでわからない。
なぜなら新聞に限らず、
どのメディアもこの論争を伝えるに、
人に面白く、興味深く、本質を語る、芸も術もないのだから。
 
かつて、みうらじゅんは、小林よしのり是非論のなかで
「カッコよいことを妬むな!」
の一言で片付け小林反対派を批判、
そして小林の活動にジョン・レノンの「イマジン」を捧げ、
その立ち位置にシンパシーを寄せた。
この文章は今でも胸打つ。
 
考えてみれば、カーツもみうらじゅんも、
無意味を無思想に語る書き手である。
だからこそ、「教科書問題」の本質的不毛を見透かし、
小林の本来を純に、芸と術のある漫画家として、
力量を認識しているのであろう。

正直言って、小林本は「思想」があるから、読んではならない。
「独善」だから面白くない、そういう風潮が
俺には今ひとつ、どう説得されてもわからない。
確かに、このように書いていても、俺のなかのでも
「小林よりのり論争」に巻き込まれたくない気分がある。

しかも、この分野で自分自身は人前で、
論争を戦うほどの知識も信条も持っていない。
それでも、この論争を見守る、マニアの観客ではあるのだろう。
リングを見つめる観客には、両極あるはずだ。
リングに上がる人に対し選ばれし人だと見上げる視点。
その一方でそれを、
「こんなもん、しょせんプロレスだろ」
と品にない野次で冷やかす視点。
罵声も飛び交う会場ではあるが、ならば俺は客席から、
往年の「猪木コール」のように小林にエールを送りたい。

俺にしても、新ゴー宣に書いてあること全てに
諸手をあげて賛成ではない。
心のなかに、ここまでの物言いは
「問題ありだ」と思ってしまうところもある。
ただし、「問題あり」だからこそ、読むべきであり、
読んでこそ、そこに新たなる興味と関心は湧き、
問題の焦点は見えてくる。

とにかく「ゴー宣」のなかでは、
ぎりぎりの修羅場から物語が立ち上り、
使命に駆られた男が自説と大義のために、
なりふりかまわず取っ組み合っている。
それが無責任な言い方だけど、面白い!

最後に混迷する「新しい教科書」問題について
猪木風に「とーこん」かましてよかですか?
「迷わずゴー宣、読めよ! 読めばわかるさ!」 


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