4月16日  月曜日

7時起床。
アサイー』ジュース
10周年を迎えた日記を書きつつ、
本日の帰郷に向けての荷造りなど。
腰痛が悪化して、荷物を運ぶ算段に苦心。

10時頃、兄が父の入院する病院に呼ばれ、
「父・危篤」の状況との報。
そして、11時前。
兄より電話、「亡くなった……」と、
あっさり父の訃報が伝えられた。

しばし沈黙の後、
珍しく兄が取り乱し泣きじゃくっていた。
丁度、今日は、俺が大阪収録後、帰郷し、
父のお見舞いへ行く予定であっただけに、
「なんで、もう半日待ってくれなかったの……」
と絶句すると、兄の鳴き声に、
俺も止め処なく涙が溢れ出した。

昨日の日記に、自分が父親になったことが、
人生の最大のミーニング・オブ・ライフと書いたばかりだったのに、
その翌日に、自分の父親を永遠に失くしてしまった……。

もともと涙腺の決壊している俺だ。
もはや、俺の涙なんて流れっぱなしの安っぽいものだろう。
それでも、もう何年もの間、
近々、この瞬間が訪れるのは覚悟し、
その喪失感をシュミレーションしてきたにも関わらず、
哀しいのは、オマエだけじゃない、と言い聞かすが、
次から次へと湧き出す悲しみの滴が止まらない。
家の中なので、
しばし、声をあげて泣かさせてもらう。

それでも、再び兄から再び電話があり、
葬儀の段取りのため、スケジュールを聞かれ、
粛々と各方面に調整する電話を入れた。

兄は、次々と迫り来る準備に追われ、
喪主らしく、しっかり毅然としていた。

 父・小野祥太郎(よしたろう)、
 腎盂癌で、本日、午前10時13分、 他界。
 享年81歳、
 通夜、告別式の場所、日程。
 喪主・兄・小野敏樹。
 父の会社・小野祥楽堂の社葬。

その様な手短な情報を逐次、事務所に報告。

「芸能人は親の死に目にも会えない」
と、よく言われるが、
(結果的には、俺も会えなかったが……)
うちの事務所は精一杯の対応をしてくれるのは、
ありがたいことだ。

その結果、
今日の大阪の生放送の番組をこなしてから帰郷、
一度、親父の亡き骸との対面を果たし、
翌朝、東京に戻って明日の仕事は全てこなし、
最終で再び、帰郷。
そのまま葬儀場へ直行、
通夜には間に合わないが、夜伽(寝ずの番)をして、
明後日の告別式には列席できることとなる。

特に明後日は、『第二週刊アサ(秘)ジャーナル』の、
大掛かりのロケであったが、全てバラしていただいた。
ご迷惑をかけ申し訳ない。

その他、もろもろの取材、打ち合わせなどの日程も、
調整してもらい、さまざまな関係者にご迷惑をかけた。

そんな段取りをつけている間は俺も毅然だが、
思考を止めボヤっとすると、
止め処ない喪失感と哀しみに苛まされ、
泣きのスパイラルが襲う。

本日の予定通り、
冨永マネと11時50分、東京発「のぞみ」で大阪へ。
車内で情緒不安定に泣きつづけるわけもいかないので、
DVD落としの『プレミアA』2週分、
『情熱大陸・井上康生編』などを見続ける。
井上康生選手も、母や兄を亡くしている様子を見るにつけ、
その切なさを慮ると、またやるせない思いに。

よみうりテレビ入り。
16時、『情報ライブ ミヤネ屋』生出演。
司会、宮根誠司。
サブ、森若佐紀子、森武史(読売テレビ)
飯星景子、見城美枝子、国定浩一、川藤幸三、一緒。

局の一部の方のみ事情を知る状況で、
生放送を淡々とこなし、
新大阪駅で冨永マネと別れ、
山陽新幹線に乗り、一人で岡山駅へ向かう。
周囲に乗客も居なかったので、
父の思い出に浸って、
ポロポロポロポロ。
ただただ泣き続ける。
生まれ育った街が近づき、
行き過ぎる、この風景も、
もう父は見ることも出来ないのだ。

腰痛悪化の俺に配慮して、
駅に兄が迎えにきてくれる。

兄は、父を病院からの「宅送り」を済ませ、
事務手続きの連続で憔悴している様子だが、
車の中で、父の今際の模様を語ってくれる。

そんな話に、俺はひとたまりもない。

家に着くと、母、先に空路で入ったカミさん一行、
近所に住むヒロコ叔母さん、従兄弟のヤッちゃん夫妻と子供、
が迎えてくれた。
しかし、畳部屋に北枕で寝かされた父の骸の姿を見ると、
また、どっと感情が押し寄せた。
人目をはばからず号泣した。

声をあげて俺が泣いている様子を見たことが無い、
タケシがわけもわからず「ないちゃだめ!」
と俺を叱る。
普段、「男の子は泣いちゃダメ」と教えているから、
なんと不甲斐ないことか。

5年にも渡る長い闘病を経た後の父は、
安らかで、安堵に満ち、慈悲溢れる仏の顔であった。

夕飯を食べながら、しばし、家族で話。
伴侶を亡くし、5年にも渡る、介護を終えた、
母も血圧を高くしている様子。

俺も腰痛が悪化していて家事もままならぬ。
早めに就寝。

父の傍に布団を敷き、
父と心で語らいながら就寝する。

長かったねぇ。しんどかったねぇ。
もう、ゆっくりしてくれよ。

父が脳溢血にて倒れたのは、
2002年1月のことだ。
丁度、俺がドラマの『浅草キッドの浅草キッド』のロケ中であり、
慣れない主役、しかもビートたけし役の重圧で、
精神的に、のた打ち回っていたときだった。
父は、右半身麻痺 言葉が不自由になり、
以後、重度の身障者としてリハビリ生活となった。

ロケの合間、一日空けてもらい帰郷した。
病床の父を見て、あの日、
父に誓ったことはいまだに守り通している。

それまで、極力、田舎に帰らなかった俺だが、
機会を見つけては、見舞いに帰るようになった。

それまでの俺は何をしていたのだろう?

車椅子生活から、少しなら歩けるようになり
言葉もわずかながら回復してきたが、
半身不随は残念ながらほとんど回復しない。
そんな車椅子生活を見ているのは忍びなかった。

そして、2005年10月左腎盂癌が発見され摘出手術を受け、
生体検査結果 悪性で転移の可能性が指摘された。
この年齢と病歴でこの時点での予防的抗がん剤の治療は、
実施しないことになるが、
2006年1月末には、ガンの肺への転移が確認される。
2006年4月には、国立がんセンターで体が弱った人向けの
抗がん剤治療の方法を教わり治療。
2006年5月には、1ヶ月入院して、抗がん剤治療を開始した。
効果があり、副作用がひどくない事が確認されたので、
退院して通院治療で抗がん剤を投与を、
3週間に1回のペースで続けてきた。

母は献身的に看病し、
兄は、手術や、抗がん剤治療の選択のたびに、
セカンドオピニオンを求め東奔西走した。
その姿は立派であった。

しかし俺は、抗がん剤治療には反対し、
一貫として、バイオラバーの使用を懇願し、
途中から、バイオラバーは併用してもらうことになった。
兄も母も、当初は懐疑的だったが、体調は好転した。

この間、何度も、余命数ヶ月の診断があったにもかかわらず、
昨年、そして、今年の正月には、東京のホテルで過ごし、
家族団欒の時を持った。
そして、ほとんど諦めていた、
次女の文のお宮参りにまで出席するほどの回復ぶりをみせた。

その後、肺の病巣の縮小が確認されるが、
2007年1月末 風邪からか肺炎を起こし、
抗がん剤治療は中止して緩和治療に変更することになった。

その後は、お見舞いに出向いても、
ほとんど話も出来ないままだった。
今年の2月6日、
病室に入った俺の声に反応しなかったが、
携帯で繋いだタケシの「がんばれ!おじいちゃん」の声に、
「おうおう」と声を出し、うっすらと涙ぐんでいたのが、
俺の最後の別れだった。


父の隣で、父の想い出を思い返す。
それにしても、俺のなかで父の存在が薄すぎる。

俺は、小野家の突然変異であり、
一時は親の影響なんて何一つ受けていない、
と長く思っていた。
でも、今はわかる。
俺が病的な恥ずかしがり屋なのも、
俺が病的な泣き虫なのも、
俺が普通より実直で勤勉なのも、
俺が本が好きなのも、全て父の血だと思う。

父は昭和2年生まれの戦中派で、
商売の稼業の長男で、家督を継ぐ家長として、
厳しく育てられたせいだろうか、
家では、無口で多弁を弄することはなかった。
考えてみれば、
一度も家に自分の友人を連れてきたことも無かった。

幼少の時から、仕事には実直で、
日曜日も休日も無く会社に出勤したが、
一切の家事と家族サービスに無縁な父であった。
家族旅行さえ、母に丸投げで、
自分から行こうとはしなかった。
しかし、それが当たり前の光景であり、
俺が、それを恨みがましく思ったことも一度も無かった。

いつだったか、珍しく業界団体の社員旅行のような、
バス旅行を父と共にした時、
バスの中では、何を振られても、只一人、恥ずかしそうに押し黙り、
バスガイドにいじられながら、顔を赤らめる父を見て、
ああ、俺のお父さんは、
究極の照れ屋で人見知りであり、
自意識過剰の内弁慶であることを初めて知った。

そんな父の様子を初めて知り、
当時、無邪気で目立ちたがり屋で天真爛漫であった俺は、
父と俺は違う性格なのだなぁ、と子供心に思ったものだ。

しかし、長じて、特に自分が芸人になってからのほうが、
自分が父に似通う、恥ずかしがり屋の血を、
意識させられるようになった。

俺が幼児から、あまり物をねだったりしなかったし、
近所の子供たちと比べても、おもちゃに恵まれた気もしない。
そんなものがなくても、毎日を楽しく遊んでいた。

小学生の3年生くらいのときだった。
美観地区の近くにある愛文社という本屋へ行くのが、
父の日課であった。
その日は、日曜日で俺も連れられていた。
その本屋のすぐ近くにある、
おもちゃ屋の『いづたや』で、珍しく俺がおもちゃをねだった。
父は、「買わん!」と素っ気無く素通りした。
そして、本屋に入って、本棚を見つめながら、
父は俺に、
「わしゃあ、子供の頃に貧しくて本が買えなかった。
だから、大人になったら、自分の好きなだけ本を買うのが夢じゃった。
だから、本だけは、おめぇが欲しい言うもんは全部買うちゃる。
だけど、わしがおもちゃを買えなかったし、
欲しいと思わんかったから、
おもちゃを子供に買ってやろうとは思わん。
わしが苦労したから子供は苦労させとうねぇとも思わん。
苦労は買ってでもすりゃあええんじゃ」
と何故かハッキリと語った。
なんだか無茶苦茶な論理だったが、
これは今も鮮明に覚えている。

そのせいなのか、
小学校の頃から、吉川英治や司馬遼太郎など読み始め、
父の影響なのか藤田田やら、糸山英太郎、邱永漢などの
ビジネス書が本棚に並んでいた。

俺が芸人になってから本を書くようになって、
父はきっと喜んでくれただろう。

思春期に俺が不登校になり、
沈んだ日々は、今まで何度も書いてきたが、
それは自分の内面の問題だった。
とても親には理解が出来ない心象風景であった。
それでも、俺が学校に行かないまま、
2階の子供部屋に塞ぎこんでいると、
「おまえの教育が悪い」などと、両親が階下で夫婦喧嘩を始め、
その声がに聞こえてきた時は、本当に居た堪れなかった。

それでも、両親には、
俺の気持ちなどわかるはずもないと思い続け、
啓示のように現れた、ビートたけしの下へ行けば、
救われると、家出の機会を窺っていた。

受験の口実で入った明治大学を4日で辞めて、
4年間のモラトリアムをプラプラしながら、
意を決して浅草のフランス座に住み込んでいた時は、
両親には、その消息を知らせなかった。
何処かで居場所を調べ、何度も手紙が来た。
そして、フランス座へ奪回工作するために両親は上京してきた。
その切羽詰った両親に対し、
「お互い子離れ、親離れしましょう」と突き放した。

その後、家出同然、勘当同然の状態は10年近く続いた。

少しは、俺も芸能界で仕事が出来るようになり、
兄の結婚式に家に帰った。
式の挨拶で小野家の全員が泣き出した。
俺の泣き上戸は、この日以来、始まった。

父は兄の孫を可愛がり、
カメラに夢中になっている様子を見て、我が目を疑った。
あれほど、家族に関心が無かった父でも、
あんな感情を持つものなのだなぁ。

それでも、父と話すのはぎこちなかった。
なにしろ、それまでに、父と二人で話した時間は、
一生の間に12時間もないだろう。

そして、2002年だろうか。
帰郷した折、本棚に父の日記を発見した。
達筆で、ほとんど読めないのだが、
が、何度も何度も「正芳」の文字が書かれ、
東京の俺を慮り、心配する文面には、
今まで全ての確執が溶けていき、悔悟の念に襲われ、
その場で、しばし、ポロポロと泣き続けた。

その日から、父と話をするようになった。
田舎からの荷物に、父が読んだ本を、
送りつけてきたりするようになった。
時折、本の感想を話したりするようになった。

そして、2003年、父は倒れた。
それ以降、父は言葉を失われ、
俺と共に、語ることはなくなった。
病床を見舞うときは、いつも一方通行で、
俺が語りかけるのみであった。

それが、どんなに無念な気持ちを思ったか。
そして、もはや取り返しのつかない年月を恨むだけだ。

そんなことを思い返しつつ、
お父さん、貴方と、44年も生きてきたのに、
全部で24時間も会話が出来なかったね。
ごめんね、ごめんね、ごめんね……。
何度でも、何度でも、亡骸の父に言いたくなる。
もっともっと、父の大好きな本の話なんか出来たら良かったのに……。

そして、あれほど嫌いだった家族旅行も、
俺の子供たちと一緒に連れて行ってやりたかった。

《 そのまんま知事、県政記者クラブ報道陣と激バトル 》
《 TOTOが温水洗浄便座の発火事故など発表…無料点検を実施 》
《 ボクシング・暴言続けば試合成立させず…JBCが亀田父に警告 》
《 専大北上高野球部が解散…奨学金制度にけじめ、5月に再結成も 》
《 ど〜もすいません…林家正蔵が1億2000万円の所得申告漏れ 》



4月17日  火曜日

6時起床。
兄貴に岡山駅まで送ってもらい、
岡山発、8時の新幹線に乗り込む。

今日は、東京で仕事を片付けて、
通夜には間に合わないが倉敷へ引き返す。
強硬日程だ。

東京駅から大丸下のデパ地下。
将寿司の握りを買って、
そのまま歩いて、大手町、大和證券へ。

楽屋で『草野☆キッド』の打ち合わせ。

SKY PerfecTV! 『菅下清廣の株式道場』収録。
岩男宗春、戸塚喜久子、永山美穂一緒。

スタッフ、出演者に気を使って頂き、申し訳ない。

赤江くん(玉袋)の車で移動、赤坂・TBSへ。

TBSラジオ『全国おとな電話相談室』収録。
3本分、

ゲスト、宇梶剛志、清水ミチコ、宮崎哲弥。

それぞれ、個性あるトーク。
笑いながら仕事をしていると哀しみのスパイラルを忘れる。

隣のスタジオでは、
甲本ヒロトが『ストリーム』に出演中であり、
スズキ秘書が会いたそうだった。

なんとか平静に仕事を終え、
スズキ秘書と共に東京駅へ向かう。

大丸地下で、柿花・和牛肉丼弁当。
今日は、二食もデパ地下食だ。

最終の一本前に乗り込む。
車中、映画『寝ずの番』を見ながら、
今、すぐ来る、『寝ずの番』に備える。

岡山駅より乗り換え、在来線で倉敷へ。
タクシーで、通夜、葬儀場である『エヴァホール』へ。

俺が参席出来なかった通夜にも、
俺のTVの関係者が何人も来て下さっていたが、
俺自身は、何一つ、対応出来なかったので、
本当に申し訳なかった。

深夜0時を過ぎて、既に通夜は終了。
万葉の間に、寝ずの番の兄が友人二人と共に。
スズキ秘書、共々、食事を頂き、
親父の棺桶の傍に布団を敷く。
朝2時半まで、兄と二人で、父の思い出話に耽る。
「おまえの方が、親父に甘えるのが上手だったよ」と兄貴。
憶えていなかった話をいくつも聞きながら。

《 選挙活動中の悲劇…長崎市長が暴力団幹部に拳銃で撃たれ重体 》
《 米史上最悪の銃殺事件…授業中の生徒を並ばせ順番に“処刑” 》
《 韓国人容疑者に盧武鉉大統領も衝撃、対米関係への影響を心配 》
《 中日・山本昌がセ界最年長完封!41歳8カ月「6日」更新 》


4月18日  水曜日

7時『エヴァホール』万葉の間、
父の棺桶の横で起床。

春とは思えぬ寒空の雨模様。

朝から弔電が次々と届くが、
各党の名だたる政治家が名を連ねるのは、
俺が長く『アサ秘ジャーナル』の司会をつとめていたからだ。

事務所の佐藤さん、冨永マネが到着。

斎場には、社葬にも関わらず、父の取引先の花輪は辞退して、
俺の芸能関係からの花輪だけを飾っていた。
その数も膨大になるからと、
事前に辞退するか、どうかは、兄の判断に任せたが、
風来坊で不肖の息子である俺が、
東京で一人前に仕事をしている様子を、
亡き父に報告し、
また親戚筋に俺の立場を立ててくれたのであろう。

佐藤さん、冨永マネが無秩序に並んでいた花輪を、
テキパキと分類、
業界序列通りに並べなおしてくれる。
これはありがたいことだった。
とても身内では対応しきれないことだから。
昨晩は、相当、乱暴に並べていたのだろう。

綺麗に並べられた花輪に囲まれ、華々しく彩られた斎場は、
正面には地蔵院の普段は門外不出の曼荼羅が垂れ下がり、
祭壇に飾られた元気な頃の父の遺影が、 一際、引き立った。

それは父を送る不肖の息子として、
心が透くような想いであった。

慌しく「立飯」を済ませた後は、お葬式に。

式の前に倉敷のライオンズクラブから
父の活動への感謝状が贈られた。

俺が子供の頃から知っている、
地蔵院の松井住職を中央に、
3人の真言宗、高野山のお坊さんが読経。

父は、高野山とは縁の深い人であった。
代々の紙屋の稼業で、
真言宗の般若信経の奉納の御紙を、
一時は父の会社が一手に引き受けて降ろしていたので、
本山との交流も頻であった。

仮説テントをこしらえて焼香場所が前後2箇所。
親族は前の方、友人・知人は後ろの方、
俺は、当然、最前列なので、
ほとんど、親族以外の列席者と顔をあわせることがなかった。

俺の芸能関係者が来て頂けることを、
ほとんど準備していなかったので、
遙々東京から来ていただいた人々には、
何もお構い出来なくて、本当に申し訳なかった。

読経が終わり、親族だけで棺桶を囲むと、
棺桶の中に花を手向ける。
これが父の顔を拝む最後となる。
もう流れる涙もあるまいと思うが、
どこからか涙は込み上げる。
母が、最後に、
「ありがとう、よく働いてくれて……」
と父の頭を撫で上げた。

お葬式が終わり、
兄を先頭に俺は遺影を持って並び、参列者に向かう。
父の弟の益弘叔父さんが挨拶してくださる。
話の途中に「親孝行な息子2人……」と言われれば、
その言葉に、自分の不甲斐なさ、無念さに、
再び涙がこみ上げ止まらない。

出棺。
クラクションを鳴らす霊柩車に続き、
タクシーに母、義姉と乗り込む。

この倉敷に生まれ、倉敷で育ち、倉敷で逝った父が、
もう2度と、この美しい倉敷の風景を望めたいと思うと、
日常の光景、郷土の景色の全てが愛おしく思える。

種松山を登り、倉敷中央斎場に到着。

棺が台車の上に置かれ、火葬炉の中へ入っていった。

親族控え室で2時間ばかりの待ち時間。
従兄弟と談笑。
兄貴の長男、ダイキくんの小学校の入学挨拶など、
感心して聞き入る。
湿っぽくなる空間、こういうぽっかりと空いた時間の、
無邪気な子供たちの様子に癒される。

親戚の人たちと、シンミリと父の思い出話を話せば、
またひとたまりもない自分も居る。

そして――。
父は骨と灰になった。

人が無になり、永遠に会えない、死を知らしめられる瞬間。
メメント・モリ。
死は厳粛で絶対的だ。
再び、涙が込み上げた。

抗がん剤の影響であろうか、
骨は脆く崩れ、何箇所か桜色と薄緑に変色していた。

「骨上げ」。 係員の誘導で、「踵からどうぞ」
と部位ごとにお箸で骨を拾って、骨壷に納める。
(後で知ったが、西日本は主要な骨のみを骨壺に収めるらしい)

よく、火葬後、骨上げの席で、
残された子供が死んだ親の骨を食べる、
という行状を聞くが、
いざ自分の番になれば、その衝動は実に納得できる。
俺も何度も「父を食べたい」との思いに駆られた。

父の骨壷は俺が持ち、再びタクシーに乗った。
箱詰めされた小さな骨壷は、まだ暖かいままだ。
その温もりを、しっかりと抱きしめた。

再び、エヴァホールへ。

ここまで残ってくれていた、赤江くん(玉袋)とマネージャーが、
親族と挨拶。

再び、万葉の間で、再び、読経と焼香が始まる。
現代は、初七日を簡略化しているため、
一日で済ませることが慣例化されている。

式の最後に読経していただいた、
地蔵院の松井大圓住職の、ありがたいお言葉。
地蔵院の御国幼稚園は俺の通った幼稚園であり、
小学校の時には、トランペットを習いに行ったものだ。

万葉の間で、親族で「仕上げ膳」の席。

親族一同が会する席ではあるが、
唯一の部外者であり、端っこに座るスズキ秘書が、
周囲から謎の外国人だと思われていたのが、
満場の笑いを誘う。

家に帰って、祭壇に骨壷を祭った。

そして、儀式は終わった。

スズキ秘書、タケシと一緒にイオンへ。
夕食のカレーの買出し。
東京でも探し回っていた、
ダイソーのプラスティック製の爪楊枝を見つけ、買い占める。
いつもの行き着けの場所でタケシとフミの子供服も買う。

皆でカレー夕食。

スズキ秘書も家族と一緒に、
床暖房の居間に、実家のフカフカの布団を敷いて就寝。

《 伊藤長崎市長が死亡…城尾容疑者「市とトラブルで恨み」と供述 》
《 『朝ズバッ!』不二家報道でTBSが謝罪「誤解招きかねない表現」 》
《 「北斗の拳」ラオウを3000人が葬送…葬儀委員長は谷村新司 》
《 楽天・田中、13K完投!デビュー戦KOされた鷹からプロ初勝利 》


4月19日  木曜日

8時起床。

朝から、母の胡蝶蘭問題で侃々諤々。
なんとか決着する。

次から次へと葬いの来客。

主を亡くし、住む人が一人減った、
実家の模様替え、ベッドを動かしたり、お手伝いする。

家の近所にある借家が老朽化したため、
兄が指揮して新築したというので見に行く。
倉敷らしい焼いた黒板を外壁に残し、
中は、吹き抜けと大きな硝子が印象的なモダンな木造住宅。
至るところに工夫とセンスがある。
そして、その工賃も合理的に節約されてあり感心。
もともと、兄は建築デザインが好きな人であったが、
本職にすれば良いのに、と思う。

タケシを連れて、
スズキ秘書を倉敷案内、
井上きびだんご君の実家の足高神社や、
美観地区を廻り、
父のお店である『紙のカミヤ』へ。
お土産の和紙10枚、お金を払って初めて買い物。

チボリ公園、横の『ふるいち』で、ぶっかけうどん。
百瀬博教さんや、清水ミチコさんも初めて食べたときは、
その美味さに驚いていたが、俺も慣れっこになっていた。

しかし、今日は、気温が急上昇したせいか、
冷やしぶっかけおろしうどんが絶品であった。

あまりの美味に土産パックを、幾つも購入。

兄に車で送ってもらって、
14時10分、ANA便にて帰京。

岡山空港で、中学時代の同級生である、
末樹くんと遭遇。
同じ便であることがわかると、
大荷物の俺たちを見て、荷物を持ってくれる。
恐縮していると、
「子供さんが二人も居るのに大変じゃろ」と。
聞けば、末樹くんも3児のパパだとか。
今や、岡山で歯科医院を開業し、
本日は、勉強会のために東京へ向かうとのこと。

羽田空港、到着後、リムジンバスでの移動も一緒。
末樹くんと30年前の中学時代の思い出話に耽る。

帰宅後、いつもの日常へと戻る。
このところ、連日、運動不足で体がなまっている。
久々にエアロバイクaiを取り出す。
75分、440kcal
『報道ステーション』3日分。『草野☆キッド』見ながら。

タケシと一緒に風呂。
何時も以上に貴重な時間に思える。

《 チョ容疑者、TV局に声明ビデオを送付…犯行の合間に撮影 》
《 楽天、TBS株20%超保有へ…三木谷氏らの社外取締役選出も提案 》
《 被害者装った?26歳男に逮捕状…川崎通り魔事件 》
《 井川、メジャー初勝利!初球ストライクで「自分のペースに」 》


4月20日  金曜日

8時起床。
『アサイー』ジュース。
タケシは元気に幼稚園へ。

昼、ミートピアサヌキの肉うどんを、
納豆、干し海老うどんに改良。上出来。

14時、タケシと一緒に、
石井カイロプラクティックオフィス』へ。
腰痛治療のカイロと軽く加圧トレーニング。
ここのところ、すっかりご無沙汰。
「すっかりお腹が出ちゃいましたね」と石井さん。
2ヶ月以内に、またシェイプアップしなければならない。
もう一度、春スキーへ行こう!と約束。
タケシと石井さんが激しいスパー。
その様子を見ていて男の子らしく頼もしい。

16時、高円寺ATカフェ。
NHK『かきこみテレビ』みうらじゅんSP
事前打ち合わせ。
みうらさんの番組に出られるとは光栄なことだ。

担当ディレクターは以前に、
俺と豊崎由美さんの書評番組を、
企画してくださった人であった。

16時、『ダイヤモンドZAi
ミニ株バトル取材、結局、2年連続の最下位に終わった。
初年度は、ぶっちぎりの優勝だったが、その後は低迷。
しかし、担当の辻さん、渡辺くんとの会話が楽しく、
仕事は終わらせたくないので、別企画で連載継続のお話。

再び、高円寺ATカフェ。
ミランカ『博士も知らないニッポンのウラ』打ち合わせ。
次回は、宮台真司教授がゲスト。
小西さんにはイロイロ気を使って頂き恐縮。
皆さん、我が家に来ていただきたかったが……。

夜、タケシとスズキ秘書を連れて、
善福寺川公園へ。
雪山でのタケシの無尽蔵の体力を見ていたら、
まだまだ記録は伸びるはずと確信。
今日は最初から記録狙い。
五日市街道から、環七まで抜ける3・5キロを往復。
これは善福寺川公園でも最長コースとなる。
計7キロ。
途中、水と低血糖にならないよう、飴を随時、食べさせる。
「犬が追いかけてくる!」
「お化けが出た!」
などとモチベーションを変えながら、なんとか完走。
最後の200m、いつものように3人で全力疾走。至福。
距離的には新記録。時間1時間6分。

その後、俺一人、ウォーキング40分で帰宅。
溜まった『コラムの花道』聴きながら。

タケシと風呂。

さくまあきらさんから、DS版『桃太郎電鉄DS』が到着。
タケシが大喜びだ。



HDDチェック。
『報道ステーション』3日分。
『ニュースの深層』(中国問題)
『アメトーク』(ドラえもん芸人)

『博士も知らないニッポンのウラ 』に向けて、
資料を揃える。

《 近隣住民ら恐怖!組員男、外に向け9発乱射…町田立てこもり事件 》
《 太田社長ら解放、身代金1640万円支払い…パラグアイ邦人誘拐 》
《 阪神が巨人に逆転サヨナラ勝ち!7年目・狩野、プロ初安打が劇的打 》
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