8月21日  土曜

 朝、赤江くん来宅。
 アッくんから誕生日の絵を貰う。
 「タモリ倶楽部」対策。

 3時30分、中央区新富スタジオオフリミットへ。
 『タモリ倶楽部』「領収証の女」収録、
 ゲストはエッセイストの横森理香。初対面。

 領収証は全て本物のガチンコでやらせはなく、
 その相手の人物像を推理する〜
 って企画なのだが、タモリさんも興味津々状態になり、
 赤江くんの回答もも冴えてて、
 Dの山田さんも「面白くなったね!」言って終了。
 俺もそう言う風に言われるとホッとする。

 帰宅後、ビデオで録った『ブラックレイン』。

 8月22日  日曜

 なんだか大睡眠。
 夏バテなのか。
 それでも明日が6時起きの山形行きと言うことで、
 不眠症対策として
 ドゥ・スポーツで1・5キロの水泳。

 夜、北野さきさん死去の訃報。
 もちろん、明日は、殿のお母さんのお通夜に行くのが
 当然の筋なのだが、なんの因果か、
 殿の相棒ビートキヨシ師匠の実家へ向うのだ。

 8月23日  月曜

 9/19放送予定のTX「日曜ビッグスペシャル」
 芸能人実家訪問〜ビートキヨシの実家編ロケ。

 7時30分発の山形新幹線に。
 で、山形駅より陸路2時間で、最上町に着。
 だが、この間の記憶は一切、無し。
 気がつけば現場である。
 記憶も無ければマネージャーも、無し。
 製作会社ゴルゴのディレクターの福島さんは女性、
 カメラクルーは山形の方。

 最上駅前で、レポート。
 山形が生んだ有名人について聞き込み。
 ケーシー高峰さんの実家の病院へ。
 キヨシさんの母校、最上中学前で、陸スキー。

 最上川で泳ぐ少年達、
 かさごを突いてそのまま河原で焼いて食べる。
 師匠の幼なじみの案内で、
 キヨシ師匠宅に辿り着く。
 一瞬、あばら屋に見え、オッと思うが、
 こことは別に別宅とのこと。



 両親にお話を聞く、が、ここで新事実が発覚、
 今までキヨシ師匠の本名は兼子二郎(かねこじろう)と
 公には通っていたのだが、
 なんと正確には、兼子にろうであった。
 にろう〜って響きがなんともマヌケで笑ってしまう。
 その間、ワイドショーでは、さきさんの死去の報道が。
 だけれども、そこには、なんの関心もない、蛭子家、
 いや兼子家だった。
 でも、そういうものだ。
 19時、終了。

 瀬見グランドホテル観松館。
 温泉にドブンと浸かり、
 「愛する二人、別れる二人」を見てるうちに、
 会席料理、地元のカメラマンの方に
 「おしん」やこけしのお話を聞く。
 飲みたらない赤江くんは恒例の近所のスナックへ。

 一人でゴロリと布団に転がり、
 「ここに母あり〜北野さき一代記」(太田出版)を読む。
 88年に出版され、当時、一読していた。
 最近、篤くんに貸し出し、
 この間、返却された。
 
 10年ぶりに読み返すと本当に心から人生の名著だった。

 殿に確実に遺伝したと思われる、
 記憶力の良さと見立ての素晴らしさに唸るが、
 『何が嫌いったって、お刺し身と芸事が大ッ嫌いなんです、私は』
 と語るさきさんが、殿の芸人生活をやめさせようと嘆くのは
 当然のことであり、殿が語り続けた
 足立区時代の貧乏と教育ママエピソードも頻繁に出てくる。
 だが、
 『たけしがあっちこっちで言ってる
  貧乏話なんて甘いっていうんですよ。
  たけしは昭和二十二年生まれだから、物心ついたときには、
  ちゃーんと御飯を欠かすことなんて なかったもの』
 って書くくらいだから、
 明治37年生まれのさきさんが描く
 殿が生まれれ前までの若き日の苦労話し?の方が凄まじい。
 なにしろわずか13歳で、身上つぶした父親に愛想をつかし、
 一人で決めて家出して、ご奉公に出るのだから…。

 人生はドラマである。
 なにしろ本の半ばで、
 「人生ってものは本当に分からないもんですねえ。
  退屈だ退屈だっていってる若い人も、
  80ン歳まで生きてごらんなさいな。
  それで振り返ってごらんなさいな。
  一つや二つはテレビドラマにでもなりそうなことを仕出かしている。
  自分の人生がやっぱり平凡じゃない物語ってことに気づくから。
  不幸だと思ったことが、転んで幸福になり、
  幸福だと思って有頂天になっていたことが
  時間が経つと不幸にすり替わっている。
  禍福は糾える縄の如しってよくいうことですよ」
と語るのだが、

 ここまでで、
 あの偉大なるペンキ屋・菊次郎さんとは出会ってないのだ。

 19歳の時、機転の効いた奉公ぶりが目にとまり、
 当時の芸人の花形である娘義太夫語りの北野うしさんに見込まれ、
 セメント会社につとめるうしさんの一人息子が婚約者となった。
 これで人生は安泰だと有頂天になったところで…
 その婚約者が10月の結婚式の目前の8月に
 盲腸で死んでしまうエピソードについて語っている個所なのだ。
 そして
 「あれは、今、考えてみると、結局、禍だったのか福だったのか。
  もし死んでなきゃ、どんな人生を送っていたんでしょうね」
 と続く、
 もちろん俺はここで、
 「福だったに決まってますよ。で、なきゃ俺すら、
  ここで殿や貴方に想いを馳せさせてませんよ!」
 と声を出したくなる。
 
 その後、菊次郎さんとの間に4人の子供が生まれる。
 また菊次郎さんには散々、苦労をかけられる。
 そりゃあ、菊次郎さんとの結婚を禍だったと思ったことであろう。

 そして長男、次男も大学を出て、立派に出世を果たす。
 が、末っ子のたけしが、あろうことか、
 一番嫌いな芸人になってしまう。
 
 あとがきに。

 「私の人生を振り返って思うことは、
  子どもたちに恵まれたってことですね。それはほんとに
  有難いと思ってます。
  だれだって、いい家に生まれたいでしょ、
  お坊ちゃんお坊ちゃんって育ちたいでしょ。
  それが不幸にも貧乏な家に生まれてしまった。
  子どもにはなんの責任もないのに、のっけから、
  貧乏ってお荷物をしょって生きたくちゃならない。
  親にできることといったら、
  教育をつけてやることぐらいしかない。
  体につけた財産は、どんな泥棒だって盗めやしないですからね。

  だから、どんなに貧乏だって、
  とうちゃんと喧嘩したって
  子どもに当たったことは、私は一度としてありませんでしたよ。
  それが母親の責任だし子どもには貧乏というもう充分に
  申し訳ないことしてますからね。

  私のときと時代が違うから、間違っているかもしれないですよ。
  だけど、親ってものは、
  自分より先に子どものことを考えるものだと思いますけどねえ。
  あとがきまでこんな偉そうなこといっちゃうと、
  口の減らないばあさんだって嫌われ.ちゃいますか。

  最後になりましたけど、
  たけしのおかげで出した本を読んで頂いて有難うございました。
  一なにせ、80歳を過ぎた人間が、
  何十年も前のことを話したものですから、
  間違っていたり、失礼なことをいったりしているかもしれません。
  その点は、年寄りの戯言だと思って、ご容赦ください。

  また、たげしにしても、今があるのは、
  大ぜいの方々がひいきにしてくださってるおかげです。
  たけしにかわってお礼をいわせてもらいます。」

 
 に結ばれる。
 人生は複雑怪奇でいて実にシンプルである。
 無駄なことは何もないのだ。
 そしてシンプルなことの正しさが、
 この歳になって俺もようやくわかるようになった。
 
 この本は88年の出版である。
 まだ、殿のバイク事故も、ベネチアグランプリもない時点での、
 お言葉なのだ。

 この後も、禍福はあざなえる縄のごとし〜の11年を生きたのだ。
 心より合掌。


 8月24日  火曜

 11時起床。
 キヨシ師匠の生家から立派なうなづき御殿へ。
 立派なお家ですね〜と声をかけると
 「にろうには、なんにもしてもらってない!」と。
 キヨシ師匠が好物だったカレーをご馳走になる。
 赤江くんがお父さんの耳元で「雨の権ノ助坂」を
 何度も歌うが無反応。
 本当に知らないらしい。

 家では自分の趣味の猟銃と、
 そのコンペのトロフィーだけが飾られている。
 「こいつの親父はマタギですから…」って言っていたのを
 思いだす。
 最後に焼酎で酔われたお父さんが、
 上機嫌で「帰ってこいよ」を唄った。
 お上手だった。

 18時50分山形新幹線で帰京。
 車中、ターザン 山本の新刊「暴露」を読了。
 村松友視「私、プロレスの味方です」の頃から、
 相変らずのいつものターザン節のプロレス論であり、
 昭和プロレス賛歌ではあるが、
 フレーズに於いては賛同だらけだ。
 引用しておこう。

 道場とは世間に対して無言の挑戦状でもある。

 プロレスの大本は道場なのだ。
 そこにプロレスの全てがあると言っても、
 決して言い過ぎではない。
 いや、道場に全てがなければいけないのだ。

 当時、外車に載っていた力道山は、
 踏み切りや交差点の信号を無視するのは日常茶飯事だったという。
 そんな形で力道山はどこに行っても、
 プロレスというものを世間にたいして
 デモンストレーションしていたのだ。

 レスラー魂とは“レスラー的自我”と言い換えてもいい。
 それは何かというと、
 プロレスの世界にはプロレスの世界にしかない“掟”が存在する。

 どれだけ世間からはじき飛ばされたのか?
 その大きさに比例して力道山、馬場、
 猪木は大スターになったような気がする。
 その中でも力道山と猪木は
 国からはじき飛ばされているのだから凄い。
 その彼等が世間とは一線を画した王国を作った。
 それがプロレスのリングである。
 そこでは反則、不条理、理不尽なことがまかり通る世界なのだ。
 道場はいわゆる条理と不条理なことが、
 絶対的掟として選手を育てていく場なのだ。

 どんなにいじめられ、理不尽なことをされても、
 それを受け入れた者だけが、
 プロレスラーになる資格を与えられる。

 プロレスが世間からちゃんとしたジャンルとして
 認知されることはないだろう。
 仮に認知されるようなことがあったら、
 プロレスが世間に屈服したか、
 そんなふうにして成り下がってしまったと思うしかない。
 異端は異端であるべきだし、鬼っ子は鬼っ子でいいのだ。
 そうであるからプロレスの道場は、戦闘的武闘派集団になれるのだ。

 いかにも古いと言われるかもしれないが、
 「世間と闘う」ことによってしか、
 プロレスの存在理由はありえない。
 この精神を、いまのプロレス団体と、
 プロレスラーの両方が失ってしまった。
 これがプロレスをダメにした原因である。

 レスラーがヒクソンに2度も負けたことは、
 プロレスが世間に破れたことを意味している。
 だからプロレスは危機なのだ。

 それと並行する形でプロレスファンも、
 世間に対して対抗心を持つことが希薄になった。

 世間を敵として生きるという“プロレス魂”を、
 みんながなくしてしまったことが、
 ああいった最悪の結果を招いたのだ。

 私はプロレスと格闘技を区別する決め手となるものは、
 世間という概念だと考えている。
 プロレスは本質的に“反世間”。
 これに体して格闘技はどちらかというと世間に近い。
 これは世間の評価がプロレスはどちらかというとハレンチだし、
 格闘技はみんな真面目ということになる。
 だからプロレスと格闘技は相容れない関係にある。

 表舞台(試合会場)では最高のスターがいて、
 裏の舞台(道場)では最強の軍団がいる。
 これが理想のプロレス団体である。まさに絶妙なシステムである。
 
 Uインターは自らをプロレス界の軍隊と、自認していたのだ。

 レスラーになるということは、すなわち居直ることを意味している。
 世間から何を言われても、とにかく図太く居直る。

 このようにプロレスには、
 世間というものをあぶり出していく作用がある
 つまりプロレスを通して逆に世間が見えてくるというか、
 あるいは世間と対比する形でプロレスが浮かび上がってくるのだ。

 プロレスはお客のニーズが唯一のルール

 もはやいまの新日本プロレスには、どんな外敵も存在しないのだ。
 プロレスファンによって作り出されている、
 心地よい温室の世界にとどまって、
 一歩もそこから出ていこうとしない。

 この傾向が強くなっていくと、
 レスラーは何も考えなくなる。
 自分たちを認めてくれる人間の中だけで試合をしているわけだから、
 迫力も何もあったものではない。
 この構造を拒否して、時には破壊する行為に出たのが猪木である。
 プロレスファンとの間にでき上がってしまっている
 暗黙の予定調和を、ことあるごとに壊そうとした。
 それが猪木である。


 大川総裁よりTEL。


 8月25日   水曜

 この日はビートニクラジオの収録予定日であったのだが、
 もちろん、番組も飛ぶ。
 ゲスト予定の百瀬博教さんとの対面も先送りとなった。

 朝から喪服を着込んで北野さきさんの告別式へ。
 その前にワイドショーで
 テレビのインタビューで泣きくずれる殿の姿。
 日本でここまで心情のこもった
 親子の愛情の20年以上のドラマを
 これほどまでに届かせる風景があっただろうか?

 葛飾区小菅の蓮昌寺へ。
 軍団の先輩連中がほとんど勢揃い。
 今は普段は偉そうに先輩面をしてる俺なのだが、
 先輩に囲まれることがてっきり減ってしまった…
 俺はダンカンや、タカさんや、義太夫さんに
 バカ話を振って突っ込まれるのが懐かしくも嬉しい。
 喪主側の席の篤くんをチラリと眺める。

 帰宅後、原稿書き。
 殿の姿を何度も反芻。
 篤くんからTEL。

 8月26日 木曜
 
 ビバリーで高田先生が
 「あの時、雷にキューを出したのは俺だから‥‥」と。笑う。

 12時、『格闘コロシアム』収録。
 キックボクサー、前田憲作ゲスト。
 ジム所属を離れ、
 チームドラゴンで選手と芸能両立の活動とのこと。
 本当にブルース・リーになりたいのだな。


 18時、蒲田の新築のビル、アロマスクエアへ。
  株式会社日本ビジネスコンピューター
 社屋移転パーティーに30分の漫才営業。
  IBMの業務用コンピューターを販売する会社。
 相当に長い待ち時間を、赤須マネージャーをイジッテ遊んでいた。

 まずは「オームの関連会社ですよね」とツカミ。
 気持ち良く、時間を盛り上げる。
 営業は久々。(カンパニーのお仕事)

 帰宅後、なんの休む暇もなく、もう、こりゃあ無理だと思う、
 締めきり仕事をこなす。
 

 8月27日  金曜

 北野チャンネルライブ
 「ガチンコトークバトル本願寺決戦」
 築地本願寺・ブティストホールへ。

 日々、数珠つなぎに続く仕事のなかで、
 今回だけは、本当に当日までほとんど打ち合わせもなし、
 おまかせ状態だった。
 座長はターザン山本で、
 浅草お兄さん会芸人によるターザン劇団旗揚げ芝居。
 平成のシェークスピアになると宣言していた
 ターザンも結局、時間がなく、途中でギブアップ。
 主に二郎の台本による、プロレスラー控室模様の芝居。
 訓練されてる舞台人には、手抜きなのだろうが、
 プロレスファンのお笑い的には、ツボではないか。
 最後にターザンが詩を読む。
 うろ覚えで、立ち尽くすターザンの舞台度胸には感心。
 
 第2部は
 ターザン、アレクサンダー大塚、グレート・サスケ、
 浅草キッドでトークショー。
 最後にターザンが大仁田挑戦を宣言。
 予定を1時間オーバーする。

 近くの「駒忠」で打ち上げ。
 酔っぱらってマキタと帰ったところに、江頭よりTEL。
 江頭、松田さん、マキタと高円寺、
 最後は桃太郎寿司。
 寝たのは朝8時半だそうだ。

 8月28日  土曜

 二日酔い、
 昼、神代さん宅、みそ豚うどんご馳走になる。

 神宮で待ち合わせ篤くんに切符を手渡す。
 予定ではホイッスル渡辺さん、赤江くん親子御一行と共に、
 神宮の新日本プロレス大会観戦のはずだったのだが、
 明後日が地元の岡山でお仕事なので、
 急遽、「イイ子になりたくて‥‥」スズキに東京駅に送ってもらい、
 一人乗変して、倉敷へ帰郷。

 帰宅したところ、
 丁度「お父さんのためのワイドショー講座」をやっていて、
 きまずいやら、照れ臭いやら‥‥

 両親が寝静まってから、
 未見だった『北野チャンネルのトリBEATライブ』
 メーキングを含めてビデオで。
 いや、最高!!思わず口ずさむ。
 全ての曲に記憶と想い出のある
 「俺達のビートルズソング」ではないか。
 ゲット・バック・足立区!!

 トリ・BEATライブ演奏曲目一覧
 1、『菊次郎の夏』のテーマ   演奏:亀有ブラザーズスペシャルバンド
   (グレート義太夫、村上秀一、小川銀次、松原秀樹、斉藤ノブ)
 2、新宿午前3時25分           歌:桑野信義
 3、TAKESHIのたかをくくろうか    歌:EPO
 4、バラード                歌:葛城ユキ
 5、I MissYou           歌:仲野 茂Sax:武田真治
 6、ロンリーボーイ・ロンリーガール     歌:ムッシュSax:武田真治
 7、OK!マリアンヌ           演奏:オフィス北野バンド
 8、〜復活!亀有ブラザースメドレー〜    歌:ビートたけし
 9、嘲笑                  歌:ラモス瑠偉
 10、六本木ララバイ(たけしリクエスト曲)  歌:内藤やす子
 11、ポツンと一人きり            歌:内藤やす子
 12、乾いた花(たけしリクエスト曲)     歌:石橋凌
 13、浅草キッド               歌:石橋凌
 14、東京子守唄               歌:ビートたけし
 15、眠れない君が欲しい           歌:ビートたけし
 16、四谷三丁目               歌:ビートたけし
 17、ジョニー・B・グッド          歌:ALLCAST
 18、ロンリーボーイ・ロンリーガール     歌:ビートたけし


 朝2時に父が起きだし、
 6時まで二人で酒を飲んでいた。
 俺は思春期に何故、家を出て、
 たけしさんの元へ行ったのかを語り、
 父親は、商売を始めた頃などの苦労話など初めて語った。


 8月29日   日曜

 兄に送られて児島競艇へ。
 『第45回自治大臣杯争奪モーターボート記念競争』中継、
 ゲスト出演。
 舟券を買うことも競艇場へ入場することすら初めてのことだ。
 赤江くん、児島駅で合流のハズが赤須マネージャーが寝坊、
 だけならともかく、前日の泥酔でカバンを紛失し、大遅刻。

 司会が生島ひろしさん、アシスタントが藤森夕子、
 そしてアドバイザーが立川談春さん。
 談春さんが、競艇選手志望だったことは聞いていたが、
 ここまで解説がプロフエッショナルとは思わなかった。

 地元、岡山県人として今日の夜が
 この児島出身の辰吉丈一郎のラストマッチであることを強調して
 岡山県選手を応援、
 そして地元出身、山本コウジ選手が見事に優勝!

12R 優  勝  H1800m 晴れ 風 南   3m波 5cm
スタート レース
着 艇 登番 選 手 名 モータ ボート 展示 進入 タイミング タイム
------------------------------------------
01 2 3558 山 本 浩 次  30 53 6.62 1 0.21 1.46.4
02 4 3415 松 井   繁  35 80 6.58 5 0.22 1.46.9
03 3 3300 川 崎 智 幸  60 50 6.58 2 0.18 1.48.8
04 5 3285 植 木 通 彦  67 16 6.58 4 0.23 . .
05 1 3278 山 田   豊  63 71 6.66 3 0.16 . .
06 6 3246 星 野 政 彦  23 11 6.67 6 0.22 . .

単勝 2 280
複勝 2 170 4 170
連単 2-4 1180 人気 2 決まり手 抜き   


 帰途、タクシーで岡山駅へ直行、
 赤須くんの紛失カバンを携帯電話を駆使して
 遠隔操作の連携プレーでなんとか捕獲。
 雷雨のため、新幹線、2時間の停車、
 この間、辰吉戦の結果を聞かぬよう、
 情報を遮断。
 電光掲示板もいっさい、目にすることなく、
 そして乗客の話し声すらも耳に入らぬ様、気を使う。

 帰宅後、ペルージャ戦を見るために松田さんが来宅していた。
 サッカーに関心のない俺は、
 「八百長なんでしょ。東スポに書いてあったもん」と。

 で、いよいよ辰吉戦。
 まず昨日放送の試合前の特番からビデオ観戦。
 90年代のボクシング界を支え、
 他のチャンピオンボクサー以上に
 日本人の思い入れを引き付けたのは、
 丈一郎と粂二の親子の物語であったことを再確認。

 倉敷生まれの俺にはごく普通に聞こえるネーティブな岡山弁だが
 東京の人から見ると違和感のあるの口調と風貌のため
 やさぐれたイメージに見えていた、粂二さんが、
 丈一郎の中学時代の担任に宛てた手紙で印象が一変する。
 
 道によって尊し…と言う言葉がありますが、
 子供でも最も、関心の持っている事や、
 何か一つの事をずっと続けている子は
 その事に関しては、大人以上の知識や能力を
 持っている子がいます。
 自分の好みで子供を見ないで、
 いろんな知識を持って、子供を見てやって欲しいものです。

 この間うちの子が『俺は馬鹿かな〜』と私に聞きました。
 私は『オー馬鹿じゃ』と言いました。
 『でもお前は馬鹿にならないかもしれない。
 今、やってることがあるから…
 人間なにもしない人、ナニの努力もしない人が
 馬鹿になって行くんだ』と、言いました。

 私は子供の考えていることが殆ど分かります。
 子供は『どうして、ぼくの考えている事や、
 思っていることが分かるん』と、聞いたことがあります。
 私は『それは、お前の親だから』と答えました。
 子供は自分をずっと見てくれている人がいれば、
 あまり変な方向には行かないように思います。

 そして息子についてテレビのインタビューで語っていたこと‥

 ワシは丈一郎を育てなかったら、もっとくだらん人間じゃった。

 また、辰吉の語る親父への言葉も印象的だった。
 
 親父を見る前に、逝ったなとわかった
 空耳のように(親父の声が)聞こえた

 丈よ すまん…

 死んでしまった人間に生きている人間が
 いまさら何をしてやれるものでもない。
 それでも、ボクは親父のために、
 立派な葬儀をしたかった。
 「貧乏やから」「片親やから」と、ボクたち親子、
 特に親父の陰口をたたいていた人々に、
 立派な葬儀を見せつけたかった。
 その気持だけで、自分を支えてたのかもしれない。

 辞める時は一緒に辞めよう。

 お前の子供は凄いやろうと(親父に)見せつけるため

 そして「最終章」と題されたリングの上に‥
 ニュースを引用。

---------------------------------------
WBC世界バンタム級選手権12回戦 ◇大阪ドーム
王者          同級3位
ウィラポン |TKO| 辰吉丈一郎
(=勝ち) |7 回| (=負け)
      |44秒|
 挑戦者辰吉丈一郎(29=大阪帝拳)が、壮絶に散った。
 昨年12月、ベルトを奪われたウィラポン・ナコンルアンプロモーション
 (30=タイ)との再戦。
 辰吉は序盤からペースを奪えず、一方的にパンチを浴びた。
 倒れこそしなかったが7回44秒、TKOで屈した。
 辰吉は試合後の会見で引退の意思を明らかにした。
 辰吉は17勝(12KO)6敗1分け。
 2度目の防衛に成功したウィラポンは23勝(17KO)1敗となった。

 真っ赤にはれあがった両目には、悔し涙が満ちていた。
 辰吉は「ほんまにすんません」と消え入りそうな声でつぶやき、
 会見の席についた。そして「引退」の決意を口にした。
 「2試合続けて同じ相手に意識をなくさせられるやなんて、
  こんなにオレはおろかやったんかと。
  これがラストファイト? まあ辞めた方がいいでしょうね。
  女房、子供のことを思うとね、
  これ以上、体を壊したくない」。

 13年間のダメージで体はボロボロだ。
 キャンプでは大腿部の筋肉を断裂、慢性の腰痛に加えて腹筋も痛めた。
 減量は約14キロでほぼ絶食状態。
 前日検診で脈拍は78から84の異常値。
 精神力でカバーしきれないほど肉体は消耗していた。
 すべてをかけた復しゅう戦は惨敗だった。
 「コンディションは万全やった。自信を持ってリングに上がったんやから。
 それだけウィラポンが強かったんでしょ」。

 序盤から右ストレートが空を切りカウンターを浴びた。
 3回にワンツーから左右のパンチでメッタ打ちにされ、
 立っているだけで精いっぱい。
 5回には右クロスの4連打に顔面がゆがむ。口から血を吐く。
 それでも倒れなかった。7回、王者の右が辰吉のアゴを捕らえ、
 レフェリーが割って入り、
 吉井清会長(66)が投じたタオルがキャンバスに舞い落ちた。
 闘志が消え、後ろに倒れそうになる辰吉を、レフェリーが抱きしめ、
 ウィラポンが支えた。

 ダウンこそ奪われなかったが、立ったまま半失神していた。
 「どうなったん。倒れてへんやん。なんで負けなんや」。
 リング上で、辰吉は菅谷トレーナーに何度も何度も聞き直した
 「覚えてないんや。気が付いたらリングに人がたくさんいた。
 同じ相手に2度も記憶を奪われるなんて…。ほんまにショックや」
 実は、昨年12月29日の試合に勝っていれば、
 電撃引退の決心をしていた。
 天国の「父ちゃん」にささげたラストファイトだった。

 今年1月31日、父粂二さんが急死(享年52)した。
 辰吉はなきがらのそばにひと晩中座り続け、
 泣きながら父に話しかけていたという。引退する決意を1度は固めた。
 だが父の死で「もう1度ベルトをおやじに見せるんや」と決めた再起だった。
 約5年ぶりに着てリングに上がったガウンの背中には、
 最愛の父の写真が縫い込まれてあった。
 死の直前、父はまるで遺言のように息子へ語りかけていた。
 「丈よ、自分のケツは自分で拭け。男なら最後に笑うんや」。
 「(父の)墓前にベルトをささげるのは、もうできんね。何を報告する? 
  カエルの子はカエルやな。力が足らんかったわと」。
 遺骨は、守口市の自宅に持ち帰った。墓はまだ建てていない。
 「ずっと離れていたからね。だから1年は一緒にいたいんよ。
  遺骨を墓に納めるのは、2月ぐらいやね」。

 前夜も父の遺骨に寄り添って寝た。
 勝利の報告だけがかなわなかった。
 試合後も「父ちゃん」のガウンを身にまとい、
 20分近くリングにとどまった。
 何度も両手を合わせ、応援してきてくれたファンに感謝した。
 2万7000人の「辰吉ありがとう!」というにぎやかな声に送られて、
 日本ボクシング史上に残るスーパースターがリングを去った。

 辰吉 丈一郎(たつよし・じょういちろう) 
 昭和45年5月15日、岡山・倉敷市出身、29歳。
 味野中卒業後、大阪帝拳に入門。平成元年9月プロデビュー。
 2年9月に4戦目で日本バンタム級王者。
 3年9月に日本人最速の8戦目でWBC同級王者。
 その後、左目網膜裂孔が判明。1年後の初防衛戦で王座陥落。
 5年7月、暫定王座に返り咲くが、今度は網膜剥離(はくり)を患う。
 その後、世界戦に3連敗したが9年11月、
 シリモンコンに7回TKO勝ちで復活。
 2度防衛後の昨年12月にウィラポンにKO負けした。
 成績24戦17勝(12KO)6敗1分け。家族はるみ夫人と2男。
 身長1メートル64、右ボクサーファイター。
 
るみさんそっと目頭押さえる

 リングサイドで声援を送っていた夫人のるみさん(32)は、
 敗北の瞬間から数分間、ぼう然と目を見開いたまま。
 やがて館内に起こった「辰吉コール」に目頭を押さえた。
 「負けたのに、あんなに声援を送ってくれるなんて…。
  それがうれしくて…。負けは負け。
  一生懸命やったけど、ウィラポンが強かったということ。
  もう最後でしょう、これで『また』なんて言ったら跳び蹴りです」。
 これでボクサー人生を終える辰吉にも、
 「辰吉丈一郎は辰吉丈一郎です」。
 第2の人生でも二人三脚で歩むつもりだ。

ウィラポン「辰吉がかわいそうになった」

 完勝で2度目の防衛を果たしたウィラポン。
 傷一つない顔に笑みをたたえ、
 4、6回は“手加減”したことまで明らかにした。
 「痛めつけられた辰吉がかわいそうになった。
  彼のパンチはフックを2発食ったくらいだったが、
  前回に比べるとパンチの強さと、スタミナが強化されていたようだ」
 タイでは妊娠7カ月の夫人オンピアーさん(29)が待つ。
 長男アーム君(9)への土産は小型ゲーム機。
 辰吉への大声援も「周囲の雑音は気にしないようにしていた」
 と涼しげに話した。

 サキさんが亡くなり、殿が号泣し、
 その姿を見て、倉敷へ里帰りした。
 親父と朝まで話し、
 地元・倉敷の児島のボートで地元出身の選手が勝った。
 俺が今日、この試合を見るために自分が望むストーリーのお膳立ては整った。
 でも、
 奇跡は起こらなかった。
 そういうものだ。
 立ったまま、失神‥。
 月並みだが
 辰吉の再起を何度、自分の身に置き換えて、
 勇気づけられ、見てきたことか。
 ありがとうお疲れさま。
 99年の夏は終わった。

 世界ボクシング評議会(WBC)バンタム級前チャンピオンの辰吉丈一郎が
 30日、大阪市都島区の大阪帝拳ジムで記者会見し、現役引退を正式に表明した。
 七回TKOで敗れ、試合後に引退宣言をした29日の同級世界タイトルマッチから
 一夜明けたこの日、辰吉選手は予定より約50分遅れでジムに到着。
 はれたまぶたをサングラスで隠してリングの中に置かれたいすに座り、
 「ぼくの体は限界。ボロボロにされて第2の人生に行くことも僕らしい」
 などと語った。
 会見の要旨は次の通り。
 ――前夜、なぜあれだけ打たれても立っていられたのか。
 分からない。寝ていれば楽だったけれど。
 でも1%でもチャンスがあったら、人間は立っていられる。
 ――やはり引退か。
 体は限界だ。元々勝ってやめるつもりで、
 今も腹わたは煮えくり返っているが、負けてやめた方が
 いろいろ考えることができるだろう。
 ――今後は。
 普通のお父っあんになる。子供と遊んで先のことを考えるが、
 家で腐っている親を子供にみせるのはしゃくにさわる。
 ボクシングは辞めたけれど辰吉は終わっていない。
 野望はあるし、もう一回ここからのし上がる。
 ――ボクサー生活を振り返ると。
 15歳で大阪に来てボクシングのことばかり考えてきた。
 きのう試合が終わってもお客さんが帰らずに見守ってくれてうれしかった。
 でもこれからは初めて子供と一緒に過ごせる。

 朝まで、男の星座(ビートきよし編)原稿書き。



 8月30日   月曜

 朝10時迎えで、渋谷ビデオスタジオ、
 『北野チャンネル』収録2本取り。
 朝は意識もはっきりせず、疲労ピークでフラフラ。
 『IDO情報ダイアル』収録。

 TーFMに移動。
 槙原敬之が覚せい剤で逮捕され、報道陣が局の前に詰めかけていた。
 ビートニクラジオ収録。
 軍団の良心、グレート義太夫さんゲストに
 「北野さきさん追悼」
 「義太夫が選ぶビートたけし曲ベスト10」2本分収録。
 いつもは、本番前から大緊張なのだが、
 義太夫さんとだと、まるで楽屋で話しているように、
 のびのび話をしている。

 TFMロビーで
 北野チャンネルについて小橋マネ、岡田マネと打合わせ。

 今日より、セ・リーグ天王山。
 上原で巨人勝利。
 帰宅後、締めきりに追われながら原稿。

 8月31日   火曜

 12時、赤江くんを迎えで浜松町トキノで、
 ぶんか社、鈴木その子本、撮影。
 60カットほど。
 帰途、ラーメン部、
 紆余曲折ありながら結局、
 目黒の「中吉」でちゃーしゅうのりラーメン。

 某出版社で進行中だった「ステ看板ニュース」の
 単行本化が頓挫。
 ビジュアル化、内容書き足し含めて、
 面倒な仕事になりそうだったのだが、
 99年末に一年を振り返るニュースネタ本として出したかった。
 東スポ掲載文(削除がある)とは別にネットにも掲載してるので、
 興味のある、編集者は名乗り上げてくれ!!
 俺たちはやる気があるぜ!!

 博士の悪童日記<1999年9月上旬>へ

最初

98年

99年

00年

01年

前回

次回

 

 

読み逃げ厳禁! 読んだら 感想メール を送りなさい! 目次に戻る