『本業』 読書感想文コンクール 投稿作品

エントリー作品(26〜35)

No.35 ■ 「浅草キッドの『業』」  :萩原雄太

事実を書かなければ愛が語れない
事実を書けば愛の激しさが伝わらない

いとうせいこうは、「お笑い男の星座2」の解説で浅草キッドのスタンスを、
このように看破する。事実を書かなければならない、
そのためには事実を書いてはいけない、そのようなアンビバレンツ。
私が、この拙稿を立ち上げるにあたって思いを馳せた事は、
「漫才とは何か」という事である。

漫才の本質、それはとりもなおさず“真っ当な”漫才師である浅草キッドの構造である。
形式的に論ずるならば、ボケとツッコミ二人の人間の
掛け合いの生み出す語りこそが漫才である。
オチに向かってスパイラルに上昇する肥大化する熱量(=笑い)こそが、
漫才の漫才たる所以であり、それに暴力的に巻き込まれる事、
それが漫才を観る醍醐味ではないだろうか。
換言すれば熱量と暴力性にこそ、漫才は生まれる。
では、その熱量と暴力性の泉源を我々は何に見いだせばいいだろうか。
つまり、その作者たる漫才師はどこからそのエネルギーを生み出すのか。
 
例えば、人は食物からエネルギーを吸収するが、
食物自体はエネルギーではないように。
あるいは恋人への愛は、その客体である恋人からではなく、
主体である自分から生み出されるように、
「熱」というものは常に変換という作業をもって発生させられる。
つまり、事象自体は熱を持つ事はない。
それに対する「自分」というフィルターが、
あたかも電熱線の持つ抵抗のように熱を生み出すのである。
電熱線は電気ではない、恋人は自分ではない、人間はエネルギーではない。
 
それらの否定は、実は願望を内包している事に目を背けてはならない。
願望を抱く人にとって、願望は常にかなえられなければならない。
自己目的化した願いはただの呟きである。
しかし、その願いを現実化したい、より正確に言うならば、現実化すべきである、
という願望から妄想への変質、その飛躍が暴力性を生み出す。
 
漫才の面白い所は、その二重化である。
ボケ/ツッコミという対立、そして演者/客という対立がそれである。
その二重化した他者性を乗り越えようとして(それは絶対に乗り越えられる事はない)、
そこに熱は生まれ、暴力が席巻する。だから、漫才というのは魅力的なのだ。
 
冒頭に引用したいとうせいこうの文を私はこのように解釈し、敷衍する。
漫才の本質とは、浅草キッドとは、叶わない願いに躍起になっている「状態」である、と。
だから、芸能人についての詳細で甘美なルポタージュは
「星座」と名付けられねばならなかった。
状態である浅草キッドにとって、それらの星を語る作業は、
もはや必然であったと言えるだろう。

前置きが長くなってしまった。そろそろ本題に入ろう。

タレント本の書評集であるこの「本業」、
ここに浅草キッドは何を語りたかったのであろうか。
もはや、それ自身が独立した「芸」として語られねばならない程の
ダジャレ、言い換え、掛け言葉を多用した文章。
そして、対象への愛、その構造は「お笑い男の星座」シリーズと変る事はない。
ここに「本」という装置を差し挟むこと、そこに何の意味があるのだろうか。
例えば、「男の星座」が、地上から見上げる星座の、
その航跡を辿るような作業を重ねた書であるとすれば、
この「本業」は、その星座、その光を夢見た記録であると言えるかもしれない。
敢えてそこに空間を提示する事で、
己の過剰なまでの愛を抑制した書、それが「本業」であるといえよう。
 
愛の抑制という言葉を使った、しかし、勘違いして欲しくない。
愛は決して弱められたわけではない。
等価、もしくはそれ以上の愛が込められている書、
それが「本業」であるとも言える。
その愛は人間という具体的な対象ではなく、
「本」に対する極めてフェティッシュな形の愛に変容しているのである。
 
本業、本来の仕事という意味の他に、
私はここに浅草キッドの「本への業(ごう)」を読み取ってしまう。
効率の悪い仕事、という作家業は
浅草キッドにとって「本業」と位置づけられるまでになった。
では、その本とは何なのか?
その事に向かい合って、彼らは、
タレント本というジャンルを俎上に載せたのではないかと思う。
 
人間は記録するために文字を生み出した。
そして、その集積が本となったのだろう。
しかし、テレビという諸行無常、
日々垂れ流される「製品」の現場を舞台とするタレントにとって、
記録とは果たしてどんな意味を見いだされるのであろうか。
きっと意味などなしはしまい。
そこは早さと効率が求められる場であり、
記録を気にしていたらその流れに乗れはしまい。
 
しかし、人間は記録されることを求める。
記録こそが生存の証であるかのように。
 
だから、記録の集積である本は著される。
自らが「在った」という証明のために。
 
ここに倒錯が生まれる。
生のための記録か、記録のための生か。
しかし、人間はすでにセックスを快楽と位置づけた瞬間から
倒錯を行っている生き物である。
その倒錯は仏教では業(ごう)と名付けられる。
それは非常に人間臭い行為なのだ。
そして、笑いは人間を愛する。
故に、浅草キッドはどこまでも業(ごう)にまみれなければならないのであろう。
 
荻野目慶子「女優の夜」で、こう綴られている。

この本を開けば、読者もページを繰るたびに、
彼女の「業音」が、耳鳴りのように聞こえてくるだろう。

浅草キッドの「業音」もまた然り、なのである。
彼らの愛は止むことを知らない。
なぜなら彼らは「状態」であり愛すること、願うことこそが、「浅草キッド」だからである。


No.34 ■ 「凡人」  :虚業

評論家、呉智英氏が『爆笑問題のススメ』という番組の中で、
「逆説・偉人伝のススメ」をテーマにある持論を展開していた。
要約すると、「己を知る為にもっと伝記が読まれた方が良い」という事であった。
つまり「誰もが重力を発見できるわけでも、飛行機を発明できるわけではない。
自分は、凡人なんだと知ることが大切である」というこであるらしい。
賛否両論はあるだろうが、私はこの意見には賛同する。

さて、そこで『本業』である。
斎藤美奈子氏の「タレント本は伝記である」という見解が正しいとすると、
『本業』は「伝記(偉人伝)評」なのである。
そこに描かれる“偉人”達の伝記は、
「道徳の「新しい教科書」に採用しても良いぐらい」の
矢沢永吉『アー・ユー・ハッピー?』からはじまり、
実際にソープオペラの主人公のような人生劇場(陳腐な表現だが…)
荻野目陽子『女優の夜』や、まさに『とんがって本気』な加賀まりこを経て、
島田紳介『風を感じて』に至る、じつに41本。
芸能人から社長、芸者と、そのジャンルは多岐にわたるが、
我々のような娑婆に身を置く人間たちとは、一味も二味も違う、
クセのある濃厚なフレーバーが香ってくる。
そう、そこにはまさに、重力を発見したニュートンや、
はたまた、飛行機を発明したライト兄弟と、なんら遜色の無い、
“凡人”ではない人物が描かれているのだ。

では、私は「伝記」評を読んで、どのような感想を抱いたのだろう?
そう、やはり私は己を知る事になったのだ。
当たり前のことだが、自分はタレントでは無いし、
いずれそこにたどり着く事も無いだろうということである。
水道橋博士が、客席から「猪木コール」を叫ぶように、
凡人である私(その他大勢)も、ここに描かれたタレントたちに
「○○コール」を送る、観客なのである。
それは、才能がない事を卑下しているのではなく、
ほんの一握りの“タレント”達の人生を、
全く無責任に楽しむ事ができるという、特権でもある。


No.33 ■ 「博士への異常な愛情 無制限40本勝負」  :キシフミヒト

1本目 「矢沢永吉」をこの連載の第1回目に選んだという事は、
「本業」というリングに上がった博士が、あごを突き出して
「いつなん時いかなる相手とも闘ってやる!出て来いこの野郎!」
と異種格闘技宣言をしたようなものだと僕は感じた。
自分と対極にある人間、ロックでスターで大金持ちで、
モテて強くてカッコいい、ボスだカリスマだと皆に奉られている男、
いわゆる一番強え奴を指名したわけだ。
そしてゴングが鳴ると
「信頼する仲間にケツをかかれ,ケツ振るどころか,ケツに火がつく・・・」
「ケツをまくることなく,30億もの負債を自分でケツを拭こうというのである。」
のケツケツ攻撃。
「お父さんのバックドロップ」ならぬ「武のお父さんのヒップアタック」で先制攻撃、
大金星をおさめてくれた。
「そういうあんたもかっこいいね!」1行で「1300円でお釣りがくる」って言うから
その1行本屋に見に行ったら、永ちゃんすげえバカで面白いから
1300円は高いけど文庫540円は安いからつい買っちゃった。

2本目 「いかりや長介」は同じお笑い同士と思いきや
かたや緻密に間を計算した笑いを作った男と、
かたや作られた笑いを破壊した男(Bたけし)の弟子である。
しかし予想外の展開で、笑いを破壊した男の弟子が見事な筋運びで
「日本のモーガンフリーマン」の振りから、まるで連立方程式を解くように、
最後は「日本のブッシュマン」でスッキリ〆め落としてくれた。
本編40本の中でもっともキレイに決まったフィニッシュホールドに
計算された笑いの美しさを見た。

つぎ行ってみよう〜!ハイ、つぎどうぞ〜

3本目 「長嶋一茂」言わずと知れた極真の使い手であるが、
博士はいきなりその相手に対し、ゴングが鳴るか否かのうちに
「日本の金正男」という反則すれすれの先制パンチを見舞う。
金正男=バカ息子=一茂ということを最初に言い切ってしまうと、
もうその後に書いてあることはなし崩しに、
バカ息子も苦悶する。バカ息子UFOを呼ぶ。バカ息子も怒る。
バカ息子巨人に復讐を誓う。バカ息子も夢を見る。バカ息子引退。
バカ息子も自律神経失調症になる。
バカ息子とスーパースターの見えないキャッチボール。
そしてバカ息子に涙。
バカバカバカバカ、バカにマウントパンチ。
フィニッシュは「はぴひる!」で打ち切り!
(すいません調子に乗って書いてしまいましたが、
 ホントは僕も一茂はグッドガイだと思っています)

4本目 「小林よしのり」 
プロレスや格闘技に何を求めるか?
技の華麗さか?いぶし銀のテクニックか?
いや「怖さ」だろう。
肉体的な痛み、流血などよりも、
魂の怒りを見たときの「恐怖心」が「猪木プロレス」にはあった。
現在それがフィクションであったと言われてもいい。
あの時実際に心震わせた我々がいたのだ。
「ゴー宣」と猪木プロレスをダブらせる博士の感覚は決して突飛ではないと思う。
猪木に限らず力道山から桜庭まで、やはり「日本人だから」というのがある。
日本人を代表して戦うものに対して自然に応援したい気持ちが生まれる。
グローバルがどうとか,ナショナリズムがどうとか僕にはわからないけど、
日本人は朝青龍よりも若貴を応援してたし、
ノゲイラ,シウバより桜庭,小川の方に正直感情移入できた。
そして、よしりんが中国やアメリカ、また日本の左派に対して、
正当な意見を日本人として訴えている姿にも僕は心打たれる。
博士もその論理より、日本人として正面きって相手構わずぶつかってる姿に
「怖さ」と「心のふるえ」を感じているのだと思う。
それは本気の戦いでなければ決して感じられないものである。
でも「左曲がりの日本」がこのまま平和であり続けるかも知れないし、
よしりんの「右曲がりの考え方」がきっかけになって戦争がおこってしまうかもしれない。
そこが博士が「よしりん全面支持」といかない所ではないだろうか?
平成のストロング小林の戦う姿にリングサイドで心震わせながらも、
博士は今回あえてゴー宣は観戦というスタンスを取ったのだと思う。

5本目 「吉田豪」男気万字固め
やっぱりねえ、オレ達日本の男達は「マン」という字がつくづく好きだよ。
しょうがねえよ、マンが無ければ誰も生まれて来なかったんだから。
「男気万字固め」昭和の男の臭いがプンプンするタイトルじゃねえか。
そしてこの本に出て来る女の肉汁大好きな男どもに比べたら、
今の男(オレ)達のセックスなんかバーチャルみたいなもんだよ。
平成になって大人になったオレ達の世代は
昭和の獣臭い男達に憧れ、羨望の眼差しを向け、しかも笑っちゃってる。
そんな昭和のヤバい男達の、ヤバい部分を掘り起こす吉田豪。
その本を書評する水道橋もまたTVタレントの裏の顔はおんなじ墓荒らし。
その嗅覚、嗜好、対象の懐に入り込む様(さま)、
文章もキッパリ同類と言わせてもらおう。

6本目 「山城新伍」は芸能界一のチョメチョメの語り部。
「アイアイゲーム」は小学生のころ、
親と一緒に見るのが気まずい番組NO.1だったように思う。
山城新伍が問題で「チョメチョメ」と言うと、いやらしい事を知っていても、
知っていることを親に悟られないように無表情でいなければならない。
そして笑うのを我慢して、下ネタじゃないところで一気に笑わなければならない。
じゃあ一緒に見なければいいじゃないかと言われるかもしれないが、
当時は居間で家族でテレビを見ているのが自然な時代だったんだよね。
「ゴアゴアとブッシュかきわけクリントン」
こんな事言って引かれないのは山城新吾だけだ。
若山&勝兄弟に愛された究極の子分肌。
博士の行き着くところはこの人なのかと思わせる。
でも下品でお茶目な部分は玉ちゃんの得意技なので
浅草キッド2人で山城新伍1人前かな。

7本目 「飯島愛」のAVを今見ても
そんなにすごく可愛いと思わないし取り分けてエロくも無い。
今もっとずっと可愛い子がもっとずっとエロい事をやっている。
可愛さだけだったら、とっくの昔に芸能界から淘汰されていた人だろう。
色々な複合要因はあろうが芸能界をわかりやすく成り上がったAV界の愛ちゃん。
不良(ヤンキー)文化が日本芸能界の主流であることがその一因であるが、
博士はそれを傍観しつつ、現代を生きているこの本のパワーに敬意を払っている。
そして博士が名付けた「逆出世魚」のエピソードで
飯島の憎めない愛らしさが伝わってきた。

8本目 「えなりかずき」を読んで思った事は1つだけ。
えなりのいなりにはちゃんと毛が生えているのだろうか?

9本目 「田代まさし」はずいぶん浅草キッドのネタになった。
でもダメになったタレントを笑ってやるという事は、
手を差し伸べているのとおなじ行為だ。
僕はシャネルズがデビューしたときからのファンだから
事件が起こったときは自分の兄弟が捕まったようなショックを受けた。
それでキッドの漫才を聴いた時はちょっと辛かったけど、
やっぱり笑い飛ばしてもらうと救われる部分があった。
博士のこの文を読むとちゃんときついネタも入ってるけど
「マーシーっていい奴だったんだよなあ」
「何とか立ち直って欲しいよなあ」
って言うニュアンスも感じられてとてもホッとした。

10本目 「ミスター高橋」
出版当時プロレス界そしてプロレスファンから相当のバッシングを受けた本であったが、
3年後の今「日本のプロレスにピリオドを打ったのはこの本である」
とハッキリ言うことが出来る。
プロレスファンはどんなに裏読みをしていようとも
「勝ち負け」だけは決めていて欲しくなかった。
どんなに八百長と言われようとも八百長じゃないと言い張って欲しかった。
それを内部にいた人間に言われてしまった。
そして言われても「屁とも思わない」パワーがもうプロレスにはなくなっていた。
博士の
「プロレスは裏側も晒してこそファンのメディアリテラシーが育つ」
といった持論を読んでひらめいた!
勝負が決まっていると言われちゃったら、
その裏をかいて勝負を決めないでやってみればいいじゃないか!
もちろんプロレス技を使って、スリーカウントで、反則5秒ルールで、
そんなにストイックにならなくても
今日は疲れたなあと思ったら負けちゃう奴がいてもいいじゃない。
でもタイトルマッチの時はもう死に物狂いで勝ちに行くとか。
関節技はロープブレイクがあるし、すぐに決めたくなければ決めなくてもいいし、
時々スパーンと腕ひしぎを決めちゃったりするとか、
永田がハイキック一発でKOしたりする事があったら面白いし・・・・
すいませんプロレスの話になるとつい長くなっちゃって。
とにかくファンが裏を読んだら、裏の裏をかいて欲しいよ。
それで強い選手が面白い試合見せてくれたら、
潜在的なプロレスファンはまたもどる可能性があると思う。
でもミスター高橋の言うWWEの真似では日本のプロレスファンは振り向かないよ。

11本目 「松本人志」は博士が
「いつなん時でも誰とでも闘う」と言った時に避けては通れない人だろう。
たけしで育った僕は、松本に対してちょっと距離を置いて見たり、
つい目をそらしている時がある。
でも博士は多分、ひょうきん族以降の日本の笑いを作りつづけてきた松本から
意識的に目をそらさずにいたんだと思う。
そして多方面の松本作品から、松本の映画への可能性を確信したのだろう。
僕も16ミリの松本人志監督作品「頭頭(とうず)」を見たが、
その笑いと怖さの振り幅は初期の北野作品に匹敵するもので、
いつ「松本がカンヌ取りました」と言われてもさして驚かないと思う。
また、もう一つ興味深いのは博士が、自らの師匠と松本を並べて
「お笑い界の2大巨匠」と言い切っている事だ。
今更ながらなるほどそうだなと思う。
ビートたけしと松本人志が居なければ、
1980年以降現在までの四半世紀の笑いは確実に違うものになっていた筈だ。
それはタモリでもさんまでも無い。
大げさな事を言うつもりはないが一般大衆の笑いのセンスを変えた2人なのだ。
しかし、たけし信者の第一人者である博士が
それをこともなげに言い切っているということは、
博士はいつもお笑い界(芸能界)をしっかり俯瞰でとらえており、
その視点は表現者のものというより、やはりルポライターのそれなのだなあと思う。

12本目 「ゾマホン・ルフィン」
理想に生きてる奴ってかっこ悪い。
ノーガードで生きてるから、突っ込まれっ放しだ。
そんな奴を殿や博士は絶対スルーしない。絶対拾う!
避けて通れない男の臭いを感じるからだろう。
そこには笑いや物語の予感もあるだろう。
百瀬博教「プライドの怪人」の解説で博士は
「そういう予感に対し、自分が無視、黙殺の態度でいられないのは、俺の性だ。」
と言い切っている。それはやはり北野DNAであると思う。
結果「たけし学校」がベナンの子供たちを学ばせている。
ゾマホンは偉人だ。偉人にしたのはたけしだ。

13本目 「杉田かおる」
「TBSの駐車場、男の髪を掴み金きり声を上げ殴りかかる女性がいた」
皆が噂として楽しんでいるものに対してキッチリ裏を取ってくる。
まさか杉田かおるを張っているわけでもなかろうが
キチンとその場に居合わせる運というのも博士の才能で
「すれっからし」という本にキッチリ、リアリティーを与え、
噂話をドキュメントに昇華させていると思う。

14本目 「大槻ケンヂ」
俺は「のほほんが嫌いだ」なんてそれは「ハカセの恋の裏返し」。
たぶん2人は両思い。ケンヂとハカセはアチチだよ。
ケンヂはバンドブームの渦中にいた。
ハカセはそんなお祭り騒ぎを遠いところで聴きながら悶々と芸人修行をしていた。
バンドブームは終わった。第3世代お笑いブーム、ボキャ天ブームなどもあったが
「生ぬるい番組に出ようとしなかった」キッド、
「正直ナンシーの目が怖かったからだ」。
ブームが終わったと思ったらケンヂは書いていた。
ハカセは孤高の知的漫才師として時事ネタを書き続けていた。
それはカッコつけてたわけじゃなくて
「自分が英雄じゃないから書くしかなかった」2人。
書いてみたらミュージシャンやTVタレントよりも「本業」に秀でてしまった2人。
自分をさらけ出して僕らの甘酸っぱい感情を引き出してくれる名文家と
有名人の伝説や奇聞を世に晒し、
僕らの憧れや下世話な興味を満たしてくれる名漫才師。
同じ時代の空気を吸えていて良かったなと思える作家、2人。

15本目 「近田春夫」
僕はこの週刊文春のコラムを、ベテランミュージシャン近田が、
今の若いモンの音楽を褒めておじさん読者にオススメするコーナーだと思って読んでいた。
でも博士のこの文を読んで、
現代歌謡史と風俗文化との分析になってると言う事を初めて知った。
そう思って今週号(2005・9・1日号)を読んでみたら運悪く、
博士ひいきの(僕も大好きな)サンボマスターがキッチリ斬られていた。
日本語ロックを標榜するサンボの新曲のタイトルが
「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」ではベタ過ぎると。
斬ってもらってスッキリするのはナンシーさん以来あまり無かったので全く悪い気はせず、
これは過去のものも読み直さなくてはいけないと思った。

16本目 「みうらじゅん・伊集院光」
「ウィ−・アー・DT!(私達は童貞です!)」
こんなことを大きな声で言える日が来るなんて・・・。
その昔「DT」という言葉が無かった頃、
我々PTSDならぬDTSD(心的童貞ストレス障害)を患っていた者は、
生身の女性を前にした時、往々にしてDTからEDに移行する危険性にいつもおびえていた。
過去、水D(童)橋博士による
「私はいかにして心配するのをやめて風俗とAVを愛するようになったか」の発表もあったが、
風俗とオナニーの回数は確実に増えたが、その心的障害を根治するには至らなかった。
しかし今回のMJとIHによるDT発表は
バイアグラに匹敵する大発明であり多くの童貞患者が救済された。
と同時に副作用として「MJに抱かれたい症候群」が
水D橋博士本人の発症により報告されている。
なお発見者の1人でDT(童貞)にDT(デブタレ)を合併しているIHは
まだ障害を克服できていない模様。

17本目 「ゴージャス松野」
ポール牧、林家ペー、日景忠男、村田英雄、
ガッツ石松などを復活させた北野再生工場は、
キッド再生工場へと引き継がれ、
ターザン山本、ゴージャス松野という奇人を見事に再生させた。
この本を読まなければただの鼻水垂れ流しゲテモノタレントであった松野への認識が、
有能なマネージャーであった事や芸子置屋の息子であるという事実を知ることにより
その晒し系タレントが立体的に人間味を帯びて見えてくるから不思議だ。
博士の書評を読んでも大して読みたくなるような本ではないが、
この書評を読んだことで、松野にはこれから
ひと旗もふた旗もあげて欲しいと素直に応援したくなった。

18本目 「荻野目慶子」
僕は青山草月ホールで「業音」を見た後、
つらつら歩いて外苑前の書店に入り、
笑芸人の最新号を手にしてレジに立ったその時、
レジ横にこの「女優の夜」は置かれていた。
「買え」という事だと思い、迷わず買って、読んだというより「読まされた」。
女優魂というより女優霊といったほうがぴったりくる荻野目慶子の女優業。
博士の恐怖体験を読んで、
同じような体験をした僕はあのじっとりとした女優の夜を思い出し
「ゴー」という音が聞こえたような気がした。

19本目 「向井亜紀」
僕は前田日明派なので、もともとカッコいい高田延彦は好きじゃない。
だから大変な作業と苦悩があったであろう子作りにしても
こういう本にして美談にしてしまう事に対して否定的であった。
でも博士が「この夫婦は最初に授かった子どもを子宮に癌が出来た事によって無くし、
向井は手術をしたが卵巣は何とか残した。
その後代理出産に挑戦しやっと子宝を授かった」事を紹介してくれて、
命のはかなさを知った夫婦がどうしても欲しいと思った命。
僕も子供を持つ身として、これだけは否定できないと思った。
高田だからとか総統だからとかそんなの関係ない。
子どもが授かるって事はこの世の全ての営みの根源だから。
2人を素直に応援したいと博士のおかげで思えるようになった。

20本目 「なべやかん」
この回はなべやかんの歴史を替え玉事件から芸能界デビュー、
そしてパワーリフティングに至るまでを簡潔明瞭に著したもので、
そのままなべやかんのプロフィールと言っていいだろう。
逆に言えばこの4ページだけでなべやかんは語れてしまうのだ。
そして芸人のプロフィールにしては芸の部分が全く書かれていない。
それはなべやかんが「なべやかん」と命名された時点で完結していたからだと思う。
そのくらい見事なネーミングなのだ。
だから後は余技(パワーリフティング、プロッブ収集)で生きていけばいい人なのだ。
僕が「なべやかんとは?」と聞かれたら「高田文夫の代表作」と答える。

21本目 「アニ−タ・アルバラード」
これはキッドの漫才ネタだ。
アニ−タ、吉幾三、リフォーム〜しようよ〜、
高田笑学校での玉ちゃんの歌声、いや〜笑った笑った。
本当に笑うしかない事件だ。
7億の金が横領されてチリ人に貢がれた。
「貧しい国のしかも最下級で生まれ育った」アニ−タが
「飢えや貧困から遠ざかった現代の日本人」の金で成り上がった事を
僕は人道的に悪いことだとは全く思わない。
じゃあ7億が700万ならいいのか?
ヤクザに搾取されて稼げず、やっと国に帰って貧乏に戻る人もいるだろう。
たまたま成功したアニ−タを僕は責めようとは思わない。
生きるか死ぬかで勝負かけて体張って日本まできた女が
いっぱい稼いで帰った。めでたいめでたい。
千田容疑者もいい思いをいっぱいしただろうし、
供給公社は自分達のチェックが甘かったわけだし、
個人的にそんなに被害受けた人もいないだろうし、
とてもいい事件だよ。
僕も7億円分のコーマンやってみてぇなぁ〜。

22本目 「田原総一朗、田原節子」
田原総一朗は政治評論家ではなかったんだ。
TVドキュメンタリー作家として、過激な取材を続けつつ、
TV討論司会者、TV討論家になった人だったんだ。
本当に僕はそんなことも知らないで何年もTVを見ていたバカだ。
反省しつつ「朝まで生TV」と「サンデープロジェクト」を見てみた。
田原を主役にして田原中心に見てみた。
面白かった!全身討論家なんだ田原は。
田原がケンカを吹っかけて、田原があおって、田原が話の腰を折って、
田原がまぜ返して、田原がCMに行って、田原が怒る。
田原討論ショーだったんだ。
「踊るさんま御殿」ならぬ「怒るたわら御殿」だ。
博士にまた面白いものを教えてもらった。
ところで「朝まで生どっち」はもうやらないんですか?
「こち虎自腹じゃ」「うんちく王」よりも「虎ノ門」はあれがメインだったでしょう。

23本目 「ボブ・サップ」が博士に話したジョシュ・バーネットに対する評価は、
アメリカのインテリっぽい考え方であって、
日本の格闘界を見る眼は少しずれていたと思う。
ジョシュだってPRIDEでアクシデントが無くミルコに勝っていれば
今ごろ大スターになっていた筈だし
今後のPRIDEでの勝敗次第ではPRIDEの看板になる可能性だって十分ある。
一方、大ブームにはなったものの
リングで弱気な面を見せてしまったサップはもう過去の人だ。
あの国民的なブームが戻ってくるはずも無く、格闘家としての評価は高くない。
やはりあの魔法の効力は短かったと思うのが妥当ではないだろうか。
しかしなんとも悔やまれるのが石井館長逮捕だ。
博士は何度も館長の名前を出し
サップ浮沈の功罪は全て館長にあると言いたげである。
あの逮捕さえなければサップの寿命はもっと長かったかもしれない。
それにしても2002年夏「Dynamite!」のサップVSノゲイラは、
まさに真夏の世の夢だったよなあ。

24本目 「山田かな子」
ヤマタクとキムタクの絡ませ方は鮮やかな職人芸。
これに下世話な話が絡めばキッド漫才そのもので、
完成された一編にかなり笑わせられたかなとは思うが、
素材そのものが美味し過ぎたから、
いかな博士の包丁捌きをもってしても、
なかなかかなわなかった山田かな子の話じゃなかったかな。

25本目 「サンプラザ中野」
ビートたけしは博打で運は使わないと言っていた。
いろんな理屈を付けたって、証券アナリストと競馬の予想屋、
どれ程の違いがあろうか?
株も馬券も勉強重ねて知識を増やしてのめり込めば込む程、
確実に増えるのは配当ではなく投資額。
どっちにしても胴元が儲かる仕組みになってる。
と、いう風に思ってる僕は古い人間なんだろうか?
博士は「株に無頓着ではいられない」
「株の期待値の高さには納得せざるをえない」
とこの本を読んで興味を示し始めるが、
サンプラザが投資額を4割減らしているというオチに笑っている。
結局、株だ、博打だ、金持ちが儲かるようになってんだ。
オレの小遣い月3万円。何を投資しろってんだ!
トーシローに投資しろってか?サンプラザのバカヤロー!

26本目 「高倉健」
博士も誰かに褒められたくてこの本を書いてきたはずだ。
そしてタレント本50冊を褒め倒した。
「拍手を送っているほうが豊かなんだな」ということが、
この本業を読んでいて再認識させられた。
人が気付かない事を発掘し、まさかこんな人をという人を褒めたと思うと、
皆が凄いと思っている人をがらりと別の視点で褒めていく。
その視点の多様さ、褒めていく過程の手練手管。
それが博士が並居る文士に褒められている所以だろう。
そして僕も博士に褒められたくて、
迷惑だとは思いながらこんな長い感想文を書いている。

27本目 「Oka-chang」の話も面白いけど、
ターザンの話はもっと面白いのに何で今回
ターザンの本は取り上げられていないんだろう。
もしかしたら取り上げない事が、
博士のターザンに対する愛のアイロニー?放置プレイか?

28本目 「佐野眞一」
博士が本件「東電OL殺人事件」を、
タレント本では無いにもかかわらず書評を犯した、その動機について説明します。
1つ目は博士本人が供述した通り、被害者の東電OLは、
スキャンダル記事の格好の餌食となった後、
「東電OL殺人事件」を下敷きにした「グロテスク」によって、
読書好きの女性にとってタレント(=偶像)と化したことが挙げられます。

2つ目は、この事件を追った佐野眞一が、
ネパール人ゴビンダの冤罪を晴らすため、
わざわざネパールまで赴いて証拠を取ってきた取材姿勢に対し、
博士が自らのルポライターとしての理想像を見たことが挙げられます。
これは彼の日記の随所に佐野眞一の著作に対する賞賛が見られると共に、
自身の著作では芸能人の噂話程度のことにも
必ず裏を取ってくる姿勢からも十分窺えることです。

そして3つ目これが最も重要な動機となります。
これは博士個人ではなく浅草キッドの漫才についてですが、
博士は相棒の玉袋筋太郎の口を通して、
他人の揚げ足取り、下ネタ、宗教弾圧、障害者差別、国籍による差別、
犯罪者に対する人権無視、肉体的欠陥の指摘(特にカツラ装着者に対する)など、
モラルのかけらも無い漫才を繰り返し、
閉鎖された空間で一部のマニアから狂信的な笑いを取っています。
しかしこのような堕落した姿を舞台上でさらすという行為が、
彼らが確信犯であるという点を除けば、
東電OLが売春婦へと堕落した姿を世間に晒していた事と類似しており、
東電OLが「堕ちる事で」病んだ社会の闇を浮かび上がらせていたとすれば、
彼らも舞台で「堕ちる道を、堕ち切る事によって」芸能界の闇の部分を浮かび上がらせ、
同時に現代社会の”病み”を照らし出しているのです。
また被告ゴビンダについても同様に、裁判において冤罪を晴らす為の証言で、
キセル、仲間への家賃のごまかし、買春によるSEXなどを告白をするシーンでは、
あさましく堕落した姿を晒しています。
このような登場人物の堕落した姿に自分たちの漫才を重ね合わせた博士は、
どうしてもこの書評を書かずにはいられなかったのです。
以上3点を博士がこの書評を書いた動機として提出し情状酌量を求めます。
間違ってたらゴビンダさい。

29本目 「高橋がなり、つんく♂」
成り上がる人ってどんななんだろう?どうしたら成り上がれるのだろう?
博士がそんな日経エンタ的な疑問に答える為、最も日経エンタ的な本を、
極めて日経エンタ的にオススメしてくれた。
僕もこれを読んで金持ちお父さんを目指そうかと思った。
やはり人間ブレイクする時のきっかけはとても大事だ。
テリ−伊藤に「ウンコ食えるか」と聞かれて
「大丈夫です」と答えたつんく♂は大金持ちになったが、
もしがなり社長に「ウンコ食えるか」と聞かれて「はい」と答えた場合は
「即現場に連れて行かれたのかなあ」などと考えてしまう。
だから「ウンコ食えるか」と聞かれた時に、
それが例え話なのか実食なのかを見極めることが、
サクセスの為には不可欠なことだと思った。

30本目 「哀川翔」不良ヤンキー文化の象徴と言える男であるが、
一世風靡が終わった後、コツコツとVシネの本数を重ね、
メジャーに舞い戻ってきたのは、
クドカン作「木更津キャッツアイ」がきっかけであったと思う。
つまりちょっと笑われながらのメジャー復帰である。
その事を本人は認識しているのだろうか?
否や
「ツッパリの頂点にいるということは、
 ツッコミどころ満載の男であらねばならない。」
「そこに作りや照れが無い事」がスターまたはヒーローに成り得る資質なのだ。
それにしても、博士に揶揄された事を知った哀川翔が怒らなかったという事は、
哀川の度量が広いというよりも、
彼が博士のことを「面白くて才能のある人間だ」と見抜いたからだと思う。
スターになる人間というのはそういうことの方を大事にするんじゃないかなあ。

31本目 「関口房朗」この本の中で1番面白い人だと思う。
芸能人もそれぞれ個性的ではあるけれど、
舞台やTVで作った物が面白い人たちであって、
関口会長やホリエモンは金銭的しばりの無いところで、
破天荒なことを現実にしてしまうのだから芸能人が敵うはずがない。
宮路社長しかり鈴木その子社長しかりである。
だからキッドが「社長転がし」を芸にしているという事は決して偶然ではなく、
今それが最も面白く、この社長たちにツッコミを入れることが
最もオイシイと本能的に嗅ぎつけた結果だと思う。
社長という鉱脈を発見したキッドは、今こうして笑いの富を築いている。

32本目 「野中広務」
政治家に比べたら、社長や芸能人なんて思いっきりベビーフェイスだ。
こいつら国家や国民の為だとぬかして、
金と肩書きが欲しくて大義名分振りかざしている奴らだ。
演説や公約で腹に無い事ばかりぬかして、
そいつらを応援している支援者たちは裏でそいつの悪口ばっかり言っている。
嘘ばっかりだ!
「こんな奴らに日本は任せられない」なんて言うんじゃなくて、
政治家というものが仕切っている国家なんていうものに、
自分を預けんな、頼るなって僕は言いたい。
そんな政治家というヒールから、
ちょっとばかりの人間性を引き出してあげようっていうのが浅草キッドだ。
田原総一朗みたいに真っ向から喧嘩売っていく人もいる。
でも、政治家のお茶目な部分を引き出して、
政治の中で嘘ばっかりついていなきゃ「持たない」奴らに、
本来人間が持っている優しさや情や情けなさを語らせてあげているのがキッドなんだ。
「週刊アサ秘芸能」っていう番組は、
本当の意味での政治家のみそぎの場になってると思う。
あの番組でキッドは政治家という
魑魅魍魎の中で生きている人たちの罪を少しだけ洗い流している。
だから野中さんが「彼らはプロの聞き手だったよ」と偉そうに言った時に、
僕は「あなたはプロの聞き手に癒されたんですよ」と言い返してやりたいと思った。

33本目 「加賀まりこ」
自分勝手に生きてきた女だなと思った。
でも自分勝手に生きる事と、
自分勝手に生きる事を「見られる事」は全く違う。
見られるだけなら慣れるけど、嫌なとこだけが曝されてしまう。
とんがって生きている姿を見せてはいるが、
「もてるように見られて、その実、一番もてないのが女優」
「女優という職業は障壁だらけ」
一人で産んだ子を亡くし
「母親が縫ってくれていた白いちっちゃな産着が・・・・やっぱりコタえた。」
女優の還付請求を博士は取り上げる。
彼女自身が語る華麗な波乱の人生は、
女優という職業に収まりきらないドラマティックなもので、
山城新伍の著作とともに、博士の純粋な憧れが垣間見える書評だった。
ただ笑いを一つ入れたいのは解るが、
ガダルカナル・タカのチンチンは亀頭ではなく蛇足である。

34本目 「大竹まこと」
「静謐(せいひつ)」という言葉を
小学校の時から持ってる国語辞典で初めて引いた。
危うく1度も読まずに一生を終えるところだった。
「静謐〜事件などがなく世の中がおだやかなこと」
大竹の本はそんな感じの本だそうだ。
「瑣末(さまつ)」という言葉も初めて引いた。
「こまかくあまり重要でないようす」
そんな大竹との小さな思い出を博士がつらつらと書いている。
ついでに「褒賞(ほうしょう)」も引く。
「ほめること」
ほめられるような事はせず、ほめられれば照れを怒りでかくし、
好きな人のことを優しく見つめ、人知れずけなすフリしてほめていたりする。
そんな生き方をしてる大竹まこととの瑣末な思い出を
博士は手のひらで握れるくらいの小さな宝物にして
ポッケに入れているみたいだ。

35本目 「杉本彩」
本書では
「タレント本を出すことは独り歩きしてしまったパブリックイメージに
 還付請求を行う作業」だと定義されている。
しかしこの本だけは違うようで、
離婚時のセックスレス発言により生じた
「性愛の情熱は誰にもひけをとらない」というパブリックイメージを、
杉本自身がさらに増幅させる為に出した「粉飾決算」であると博士は指摘する。
「過激な言動、行動は本来控えめな自意識からの逃亡」で、
その証拠に酒席を共にした際の杉本は
「静かに酒をたしなみ」「小心で控え目な雰囲気」があったというのだ。
あの激しく喘ぐパリ静子に本当はこんな大人しい素顔が隠されていたとは、
またまた僕は欲情させられてしまった。

36本目 「ガッツ石松」VSマイク水野は伝説の戦いだ。
未来ナースにおいて、水野がガッツの映画をけなした事から始まった抗争。
O.Aされた物でもガッツの怒りはマジではないかと思わせるほどの迫力があった。
あのマネージャーの迫真の演技にも
ヤラセと解っていてもずいぶんドキドキさせられた。
さすがのTV界の「危険物取扱い主任」も
この「天然(ボケ)記念物」の取扱いには苦労した事だろう。
その他にも鈴木その子VS高部知子、ゴージャス松野VS田代純子、
江頭2:50VS桜庭あつこなどの豪華カードを揃えた未来ナースは本当に面白かった。
是非DVD化望む。
そしてガッツが本気で暴れた時の裏DVDがあったら絶対見たい。
余談だが、未来ナースの後半で現くりいむしちゅうがやってた
街中でのディープというよりベロベロキスのコーナーも本当に馬鹿らしくて面白かったね。

37本目 「角田信朗」 
博士が「平成の凡人脱出の物語」というように、
角田選手は決してスター選手ではなくて、佐竹選手の露払い的な存在だった。
体が小さいから決して勝てる選手ではなかったが、
突貫小僧的な面白い選手だった。
アスリートを天才か努力型かに分けるとすると、角田は100%努力型。
でもスター選手に比べたら所詮色モノ、
天才=スターと呼ばれる人にはいくら努力してもなれなかった。
でもその生き様をサイドストーリーとしてみた時に、
角田選手の流した汗の粒々はスター選手よりもずっと光り輝いていたんだなあと思う。
そして、そういう博士も角田選手に負けず劣らず凡人からの脱出組だ。
その高速回転する頭脳は天才と呼んでもおかしくはないが、
今回本書での定義としては天才=スターだから、
博士は決して天才ではない。
でもその紡ぎ出す文章と搾り出すギャグの数々を見聞きしていると、
凡百のタケシチルドレンの中の1人が、ビートたけしの下へ這い上がって行って,
懸命に光を放っている様が、今とてもカッコ良く見えている。

38本目 「諸星和己」
この回は吉田豪に発注したのではないかと思った。そのくらい似てると思う。
全体的には諸星の本も、諸星の生き方もバカにはしているものの、
一段落ごとに見ると、前半はバカにしているのだが、
後半トドメは刺さず持ち上げて終わる。
また段落を変えて、けなしているのかなと思うとフォローして褒め言葉で終わる。
そんな書き方をして悪口をソフトに包んで見えないようにしてはいるが、
書評の最初は「ラズベリー賞に推薦したい」で始まり、最後は
「くそ長く語り継がれるべき(反面教師としての)教訓に満ち満ちているのだ」で終わる。
揶揄した文で全体を挟む事で、僕らが「バブルアイドル」に対して抱いている
「大スターのつもりで、そんなにいい思いをしたんなら、
 中途半端に芸能界に生き残ってねえで、
 キッチリ落ちぶれたところを見せてみろってんだ、このくそアイドル崩れ」
という妬みの感情を、
博士は柔らかく代弁してくれてると感じた。

39本目 「堀江貴文」
僕らの子どものころは
「あんなこといいなできたらいいな〜、みんなみんなみんな叶えてくれる」ドラえもん。
大人になった今
「あんな株イイナ買えたらイイナ〜、みんなみんなみんな買い占めてくれる」ホリエモン。
今の日本では金持ちにしか夢を見ることを託せなくなったのだろうか?
TVでキッドは堀江や関口といった社長の幇間を演じている。
もちろんこの社長たちが面白いキャラクターを持っており、
バラエティーへの理解と対応力があるからだとは思う。
しかし、ただ金持ちを見て笑えるわけは無い、そこに笑いが生まれているのは、
マネーゲームで成り上がった金持ちとそれを祭り上げるマスコミへの、
キッド流の暗喩と揶揄があるからではないかと思う。

僕は博士が好むと好まざるに拘らず、
この感想文では博士に対して肯定的なことしか書いていない。
実際にも博士に対して嫌な部分は一つも無い。
全部好きだ。ちょっと抱かれてもいい。
だから夜中に書いたラブレターみたいで、読み返すと自分でも気持ち悪かったり、
これじゃあ本当に褒め殺しだなあと思うところがある。
でも、もうここまで書いちゃったら後戻りは出来ない。最後まで褒め殺す。

40本目 「島田紳助」が本を読まないというのは意外だった。
でもそういえば高校の時、
学年で一番出来た奴はノートを取らずに先生の話を聞いて覚えてた。
やっぱり天才という人はそんなモンなんだなあ。
そして彼にとって本を「書く」ことは、
TVというスピードだけが求められる特殊なメディアに居ることで、
長い話をゆっくり掘り下げて語りたいという欲求が溜まり時々吐き出したくなるものだと。
それをお金を出して買ってくれるホントのファンに楽しんでもらいたい。
紳助くらいの稼ぎだと本を出すことは商売ではなくファンサービスなのだ。
しかし博士にとっても本を書くことは一番効率の悪い仕事ではあるものの、
やはりライフワーク「本業」である。
それは、ファンが読んでくれればいいではなく、
ファンじゃなくても読ませたい、読まない人にも買わせたい、みたいな姿勢だと思う。
そして読んだ奴には損はさせないよ、絶対面白がらせてやるよという意欲が、
推敲推敲また推敲を繰り返して「誠」が込められた「本」を産み出している。
浅草キッドが「面白い」という人はいっぱい居るけど、
「ファンです」という人は僕の友達の中でも一般的に見てもそうは居ない。
マニア(少数派)だと思う。

でも「僕」は浅草キッドのファンだ。
そして「僕」は水道橋博士のファンだ。
そして「本業」は「僕」に書いてくれたと思って読んだ。
だから「14歳」の「僕」が書いたような青臭い感想文だけど、
博士への御礼のつもりで誰よりも「長く」書いてやろうと思った。
でもあんまり長すぎてこれじゃあ嫌がらせだ。

あとがき
「読書感想文にあとがきなんて」と言わないで下さい。
無い知恵絞ってやっと40本の感想文を書き終えた(誰も頼んでないのに)。
と思ってホッとしてたら、「たけし!」が残ってたよ。
ビックリしたよ!「OH!たけし」だよ。

「校舎の3階の窓から校門の横の自転車置き場を見つめながら、
まるで幽体離脱したかのように、自分の意識が浮き上がり、
気持ちの上で空が晴れ晴れと澄み渡り、風景が変わって見えた」博士は、
やっぱり選ばれし「たけしチャイルド」だったんだ。
しかも「芸能人ではなく、芸能界に潜入するルポライター」として選ばれた
「たけしチャイルド」だったんだ。
「地道で孤独で難儀なこと」をマゾヒスティックな程に続けている博士は
タケシイズムの殉教者と言えるだろう。

「たけし!」が博士の人生最大の贈り物(ギフト)であったならば、
「博士」は、たけしが遺した最大のGIFT(才能)=タレントであるかもしれない。


No.32 ■ 「本業」 感想文  :亜紀子

博士ならではの切り口、語り口で独特な毒解力で非常に面白い本でした。
多少、褒めすぎ?っていうところもありましたが、
どの本も「読んでみようかな?」と思わせてくれました。
博士の日記の方が実は引き込まれる世界なのですが。。。。
忙しい中、博士はよく読まれたな〜と感心です。


No.31 ■ 君死に給う無かれ  :池袋寿司太郎

ああ博士よ 君を泣く 君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば  親のなさけは まさりしも
親は刃をにぎらせて  人を殺せと をししや
人を殺して死ねよとて  四十三までを そだてしや

博士よ。あなたほどの人がなぜにか守りに入ってはいやしませんか。
浅草お兄さん会で後のトンパチプロ勢に反旗を翻された頃から、
あなたはあなたでなくなったのではないのですか。
今でもあなたの文才とテクニックで人をひきつけることはできるでしょう。
でも本当にあなたの才能を発揮しているのですか。
あなたはハチミツ二郎と同じようにハルク・ホーガンになりたいのでしょうか?
あなたはちがうはずです。
あなたの本当の理想はキッドであり、ローランド・ボックであり、
もしかしたらスティーブ・ライトなのではないですか。
いやローランドボールマーク・ロコかもしれないし、
酔っ払って余興で酔っ払ってスピニング・トーホールドを決めて死んでしまった
ドリー・シニアなのかもしれません。
いや、ガラガラの会場で小鹿さんの前で死んでしまった桜田さんかもしれませんし、
キモとビガロの前で馬鹿みたいに拍手していたかっこいいあなた自身なのかもしれません。
嘆いても曽根卍は帰ってきません。でもGO!ヒロミ44は生きています。
博士、今のあなたは格好良くて格好悪いです。
なぜなら今回の仕事は吉田豪氏の仕事のはずだから。

博士が微妙にバランスをとっているのはわかります。
ちょっとの罪悪感も感じながらそうしてるのも。
 
カッコワルイノガ。カッコイイナラ、スマノハカセハカッコイイノデショウカ?


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