★浅草キッド推奨ドキュメント★
アンディ・フグ 生涯最大の敵との闘い
文・谷川貞治 『SRS・DX No.29』より

 8月24日(木)午後6時21分、ミスターK−1として、K−1ブームの最大の立役者となった鉄人アンディ・フグが急死した。
 死因は「急性前骨髄球性白血病」。享年35歳というあまりにも若すぎる生涯一一 偶然にも私はそのアンディの最後の面 会者となり、生涯最強の敵と闘った死に際に立ち会うことができた。
 それは、アンディ・フグという生涯武道家としての人生を全うした男を、一人でも多くの人に伝えるという使命を与えられているように、私には思えた。 文◎谷川貞治(SRS・DX編集長)


 それは、フィリォが優勝した8・20Kー1横浜開幕戦の翌日の8月21目(月)のことだった。私は偶然にも、アンディ・フグがきわめて重い病気で都内にある日本医科大学付属病院に入院したという話を耳にした。まず、大会の一夜明け記者会見が開かれる前の早朝、石井和義館長が一人で病院に駆けつけた。

そして、会見の後、新高輪プリンスホテルの庭園でその病状を私に耳打ちしてくれた。石井館長の表情が重い。そして、石井館長の口から出た言葉には、さすがに自分の耳を疑った。
「実はアンディが‥‥白血病なんです」
 えっ!?‥‥まさか。白血病と言えば、血液の癌である。アンディが入院したと聞けば、普通 練習中のケガを想像する。重いと言えば、脳のダメージによる後遺症かと思っていた。それがまったく格闘技に関係のない白血病という病気。それを理解するのに、私はしばらく時間がかかった。

 アンディとは1カ月前の7月29日、名古屋で一緒に食事をしている。だって、あの時はあんなに元気だったじゃないか!「アンディはすでに自分の病気のことを知っていて、たとえ死ぬ としても『日本で死にたい』と言ってたんです。さすがに涙が出そうになりましたよ。明日、医者が詳しく説明してくれるそうなんで一緒に行きませんか?事態が事態だけにマスコミの発表や今後について相談に乗ってください」と石井館長。こうして、私は翌22日(火)、日本医科大に一緒に駆けつけたのである。

 午後3時、第三内科教授で血液の専門家である檀和夫医師から我々は説明を受けた。私は檀教授の話を必死にメモすることにした。檀教授の話によると、アンディの正式な病名は「急性前骨髄球性白血病」という10万人に6人しか発病しない珍しい病気だった。遺伝や先天性のものではなく、原因は現代の医学でも解明されていない。もちろん、格闘技にも関係なく、誰にでもかかる可能性があるという。

 アンディは8月に入って、母国スイスにCM撮影のため帰国。そこで39度の高熱が出たため、精密検査を受けたという。15日に日本に戻ったが、熱は下がらず、それでもアンディは律義にスイスの検査報告を待っていた。しかしどうしても耐えられず、19日に自力でタクシーに乗り、K−1のリングドクターのところに相談へ。「これはただごとではない」と診断され、日本医科大に緊急入院し白血病であることが判明した。

 ちなみにスイスでの検査結果では、白血病の診断は下されなかったという。檀教授は、この病気は治療が始まってから最初の2週間が大切だと言う。その間に@出血などの合併症が起きたり、Aウィルスの感染をしたり、B薬の効果 が出なければ生命の危険さえあると言うのだ。
 しかし、もし効果が出れば、3ヵ月くらいで退院でき、2年間の治療を続ければ社会生活に復帰することも可能。ただし‥‥その2年間、抗癌剤を打ち続けることは非常につらく、体重は3分の2くらいに減り、髪の毛も抜けていく。

 そして「アンディさんの今の職業を続けることはまず不可能です」と、ハッキリ言われたのである。えっ‥‥嘘だろっ? だって今年に入り、アンディは武蔵、グラウベ、ミルコ、ノブ・ハヤシと毎月試合をやって、全て勝っているじゃないか! そんなに強いアンディがこれで見られなくなるとは、どう考えたって信じられない。10月にも福岡の試合に出ようとしていたじゃないか!

 医師の話を聞いても、私はそれでもアンディなら何か奇蹟を起こしてくれるんじゃないかと信じていた。そして偶然にも私がここにいるのは、きっとアンディのこれからの闘いをファンに知らせるためである。

 そう、私は自分に与えられた使命を強く感じていた。アンディがこれほどのスーパースターになったのは、我々に常に“負け様”を見せてきたからである、勝者こそ評価されるという格闘技の常識を覆し、負けてどん底に叩き落とされて、それでもあきらめずに前へ一歩踏み出す。その生き様に、我々日本人も感情移入してきた。

 しかも、超ヘビー級のK−1の世界で、180センチにも充たないアンディが、日本人の武道である空手の道衣を着てリングに向かっていく。その姿に、我々は日本人以上のサムライを見ていたのだ。負けた相手にも必ずカラテ・スピリットで借りを返してきたアンディ。“リベンジ”という言葉は、まさしくアンディ自身が生み出した言葉である。そのアンディなら、この試練にも打ち勝ち、奇蹟を起こしてくれる。私はそう信じずにはいられなかった。

 そんな気持ちで、私はアンディの病室に入っていった。もちろん、アンディは偽名で入院している。その病室の表札には「武道聖矢」という名前が書かれていた。アンディが好んだ「武道」と愛する息子「セイヤ」からとって付けられた名前だ。病室は無菌状態。石井館長と私はそのためエプロンとマスクをして入った。
 両腕にいっぱい点滴を付けていたアンディ。我々に気がつくと、笑顔でベッドに腰掛けた。見た目には元気そうだ。でも、布目が少し充血しており、体中のあちこちがアザのように青くなっていたのが気になった。面 会謝絶なので、病室にはイスが一個しかない。そこに石井館長が座ると、アンディは付き添いの医師に「彼にイスを出してあげてくれ」と何度も言った。私が「いいよ、いいよ」と一言っているのに、アンディは異常なほどしつこく医師にイスを持ってくるように言うのだ。

 アンディがそこで言ってたことは、とにかく記者会見を開き、自分でこの病気と闘うことをアピールしたいということだった。
 「ファンのパワーを借りて、私はこの闘いに勝つ」と何度も言った。そして、アンディらしいなあと思ったのは、それを「自分で言いたい」と譲らなかったことだ。
 「来週の月曜日なら、私にとってもKー1にとっても日がいい。占い師がそう言うんだ。その頃は自分もよくなると思う」とアンディはきかない。それに対して石井館長はきつく「アンディ、何を言ってるんだ。この2〜3週間が大事なんたろ。記者会見はちゃんと開くから、しっかりベッドで寝ていることを約束しなさい」と言った。そこで、とりあえず私がアンディのメッセージを聞き、明日また来てビデオカメラで撮影することにした。それを記者会見で流そうと提案すると、アンディはようやく納得してくれた。
 また、アンディは長期間になるかもしれないけど、自分の保険がきくかどうか心配していた。 それらのことに対し、全て石井館長は「分かった、アンディ。とにかく一生懸命病気を治してほしい。余計なことは心配するな!」と怒った。見ると病室にはテレビも携帯電話もある。石井館長はアンディがずいぶんわがままをしているんじゃないかと思ったのだ。

 しかし、その一方でアンディの枕元には英語で書かれた「禅」の本があった。アンディは、気持ちが滅入った時、やはり東洋の思想で打ち勝とうとしていたのだ。
 20分くらい話しただろうか。

 アンディは私に「ありがとう、ホントありがとう、また来てネ」と日本語で言った。そして石井館長にも「ありがとう、ありがとう」と言い、「アイ・ラブ・館長!」と言って握手した。私も握手したのだが、それはいつものように力強いものではなかった。それでも、これがアンディとの最後の握手になるとは夢にも思わなかった。この面会が、アンディにとっての最後の面会となってしまったのだ。石井館長もアンディの病名を記者会見で発表するのは賛成だった。
 今はK−1や正道会館関係者にも言ってない極秘情報だが、変な噂が立ったり、マスコミに変な形で発表されるのはマズイ。特に最近はインターネットが発達しているから、できるだけ早く発表しようという考えだった。そこで明日、ビデオカメラでアンディを取材し、明後日の24日記者会見を開こうということになった。

 翌23日午後5時に、アンディの病室へ私は再び向かった。しかし、途中で石井館長から電話が入り、「今日はやめておこう」という話になった。何か悪いムシの知らせがあったのだろうか。仕方なく、私は車で事務所に逆戻りした。

 その日午後7時、極真会館の松井章圭館長がラスベガス大会に招待してくれたお礼に、石井館長とフジテレビの関係者を会食に誘い、私もその席に呼ばれていた。場所はアンディのセコンドも務める半永虎さんが経営する焼肉屋「虎の穴」。一旦、事務所に戻った私は、少し遅れてその「虎の穴」に向かった。
 着いてみると、全員が重苦しい表情で石井館長の話を聞いている。どうやらアンディが昏睡状態に陥ったようだ。石井館長は「明日、記者会見で発表するつもりなんですが、それまで伏せておいてください」と言って、正道会館の中本直樹本部長、辛さんの3人で病院に向かった。

 みんな、何が起こったのか、まったくピンと来ていない。何人かは「今、石井館長は兄(アニ)と言ったの? えっ? アンディ? アンディって、アンディ・フグのこと?」と言っていたほどだ。それから1時間、残った我々は重苦しいムードでまるで食が進まない。

 そして再び石井館長から電話が入った。「容態がよくない。いろいろ相談したい」ということだった。松井館長が「じゃあ、みんなで行きましょう!」と提案し、会合は中止することになった。私はアンディの危篤状態に極真時代の最大のライバルで、第4同世界大会の決勝戦を闘った松井館長が駆けつけること自体、凄いドラマチックに思えた。

 これまで何度も負けた相手にリベンジしてきたアンディだが、借りを返していないのが、松井章圭とフランシスコ・フィリォの2人である。
 午後8時半頃、我々もようやく病院に辿り着いた。集中治療室のドアを開けると、そこには信じられないアンディの姿があった。ベッドに大の字となり、呼吸器をつけられ、瞳孔はすでに開いたような昏睡状態。両腕にはいっぱい点滴がつけられている。

 あんなに強くて、負けず嫌いで、生命力にあふれていたアンディが、これはいったいなんて姿なんだ。その姿を見ただけで、涙があふれそうになった。というより、“嘘だろこれは。昨日はあんなに元気だったじゃないか”という気分だ。松井館長も少し目を赤くし、じっとアンディを見下ろしている。

 強さってなんだろう。格闘技ってなんだろうと考えずにはいられない光景だ。そして、この場に松井館長がいるということ自体ドラマチックすぎるように思えた。これは本当に回復するんだろうか?
 えっ!? もしかしたらアンディが死ぬのか? そんな冗談はないだろう。

 もう我々には言葉も出ない。重々しい雰囲気の中、松井館長がポツリポツリと私に話しかけてきた。「アンディが正道会館に行った時、やっぱり我々は頭にきましたよ。でも、頭にきても、やっぱり勝ってもらわないと困る。そういう気持ちでずっと見守っていたんですよね。でも、最近は我々の大会を見に来てくれたり、武蔵選手との試合の前は極真の選手にはスピリットがあると言ってくれたり‥‥そういうのを見て、変わってきたのかなあ、と。
 K−1という違うルールで、あそこまで結果を残して、やっぱり一緒に鎬を削ってきた者としては嬉しいし、尊敬していました。大したヤツだなあって」

 アンディは第3回、第4同世界大会でともに松井館長に敗れている。第3回大会は一蹴した感じだったが、第4回大会の時は本当に危なかった。あの頃はまだ、大山倍達総裁も揺るぎない象徴として存在しており、日本が外国人に負けるなんていう覚悟さえできていない時代だった。

 外国人選手もまだまだ日本人に遠慮したり、気後れしたりしていたが、そのムードを破壊し「世界チャンピオンになってやるぞ」と本気で踏み出したのもアンディだったのだ。それから、松井館長はずいぶん病室にいたが、石井館長が「長くなるかもしれませんから」と言って、帰ることになった。

 石井館長はその後、何人かの関係者に冒話で連絡をとり、極秘でアンディの見舞いを許可した。元夫人のイロナは、アンディを看病するため日本に向かっていたが、オランダの空港でなんとか危篤状態であることを知らせることができた。

 午前1時頃、アンディの容態について檀教授から再び説明があった。アンディは23日の午後になって、急に「頭が痛い」と言い出し、午後5時頃になって胸の痛みを主張。6時半頃から、昏睡状態に入ったという。レントゲン写 真を見ながら説明してもらったのだが、頭部の左半分が血まみれとなり肺もかなり出血しているように見えた。
 また、肺には細かいカビがいくつか見られ、これが呼吸困難の原因につながっていることが判明した。心臓は動いているが、きわめて危険な状態であるのに変わりはない。もちろん、手術もできず、ただ治療薬でこの血を止めるしかない。
 しかも、アンディは白血球の数が一般 の人より50倍も多い体質で、かなり進行が速いというのだ。もし、仮に奇蹟的にアンディが甦ったとしても、なんらかの障害が残ることは間違いない。なんて、なんて運命なんだ。
 
 それからアンディはずっと生死の境をさまよい続けた。心拍数が160に上がったり、130くらいに落ち着いたり、何度も数字が上下する。160というと、100メートルを全力で走るような心拍数。この状態を、ずっと繰り返していた。
 その数字をジッと見つめていると、アンディがリング上で闘っている姿が浮かび上がってくる。きっとアンディは、次はブランコ・シカティックだ、次はマイク・ベルナルドだ、次はピーター・アーツだと次々と試合をしているに違いない。表情も体勢もちっとも変わらないのだが、アンディは時々両足をピクッ、ピクッと動かしていた。

 日付けが変わって24日の午前3時から5時くらいは本当に危ない状態だった。しかし、アンディはそれでもがんばる。朝方には、心拍数なども昏睡状態に入った時の数値に自力で戻した。我々もほとんど寝ずにアンディのことを見守った。

 石井館長が「やっぱり、明日はどういう状態でも記者会見をやりましょう」と言い出した。それがアンディの意志であり、すでに何人かの人間にも知れわたっているので“アンディ危篤”の情報が洩れ始めていたからだ。

 24日午前10時、K−1事務局から「緊急記者会見」のプレスリリースが各社にFAXされた。しかし、そこには内容もアンディ・フグの名前も書かれていなかった。午前11時を回ると、イロナ前夫人が到着した。思えばアンディは、このイロナを待っていたのかもしれない。イロナとは今年6月に離婚しているが、今でもビジネス・パートナーとしていい関係が続いている。
 元モデルのイロナは、芸術家として自立しようとしているが、その会社にアンディも出資し、全面 的にバックアップしているのだ。アンディを見たイロナは「信じられない」という表情で崩れ落ちた。そして、ずっと手を握りながら涙を流していた。こんな事態になるなんて夢にも思っていなかったので、息子セイヤ君は連れて来ていない。

 正午を回ると、また状況は悪化した。イロナがスイスに連れて帰りたいと言うと、医師は「もう2、3時間しかもたない」と初めて口にした。これで、石井館長が記者会見に出れない状況になったのである。
 記者会見を中止しようという意見や延期しようという意見が飛んだが、石井館長は私に行ってくれと言う。もちろん、私はK−1事務局の人間でもなければ、アンディと特別 に親しかったわけではない。「それはおかしい」と言ったが、石井館長は「状況を一番よく分かっているから」と言う。「記者のみなさんを待たせたくないんです」ということで、結局私が高田馬場にある正道会館の道場へ向かうことになった。その時、何をしゃべったらいいんだろうと思う一方で、帰るまで死なないでくれと心から祈った。

 すでに噂が広がっていたのだろうか。午後2時、正道会館にはワイドショーのカメラを含めて100社近いマスコミが集まっていた。そこで中山健児K−1リングドクターからアンディの病状が説明され、「2日前にアンディと会った人」として、私はアンディの状態を告げるとともにアンディのメッセージを発表した。
 会見は40分にわたって行われたが、すぐにテレビのニュースで「アンディ危篤」のテロップが流れた。私は会見を終えるとすぐ病院に戻った。アンディは医者が言う2〜3時間を過ぎてもがんばっていた。
 その頃には、大阪から角田信朗も、チームアンディの平直行も、沖縄からトレーナーの平仲明信も病院に駆けつけていた。アンディは、それらの人を待っているかのようにがんばり続けたのだ。
 全員、アンディの周りを囲んで、涙を流しながらアンディの名を呼ぶ。こんなことが起こるなんて、誰も信じられない。

 思えばアンディには両親がいない。父親は子供の頃に他界しており、母親は行方不明。おばあちゃんと姉がいるそうだが、ここ何年も会っていないという。妻とも今年別 れた。スイスでの引退試合も行った。母国を捨て、家族の愛にも恵まれず、言葉も分からないこの日本で死ぬ なんて、アンディよ、それはあまりにも悲しすぎるではないか。

 午後6時になると、いよいよ危ない状態になってきた。駆けつけた全員が、アンディのベッドに集まり、声援を送る。心拍数などの数値がどんどん下がっていくにつれ、涙ながらの「アンディ!」「アンディ!」という声が飛び交う。
 アンディにとって人生最強の相手との最後の闘い。みんなセコンドになって、レフェリーになってアンディに声援を送る。
「アンディ、まだ試合は終わっちゃいないよ。ダメだ、ダメだ、あきらめちゃ」
「キープ・ゴーイング・オン、キープ・ゴーイング・オン。続行、続行だよ、アンディ!」
「ハンズ・アップ! ハンズ・アップ! 手を上げろ!試合は終わっちゃいないんだから」
「アンディ、おまえいっつもカラテ・スピリットって言ってたやないか。何やっとんのや、情けない! あきらめるなよ。あきらめるなよ」
 そう涙ながらに叫ぶ角田。周囲もみんな「アンディ、がんばれ」と涙しながら叫ぶ。このシーンには私も涙なしではいられなかった。
 数値がOになる。しかし、角田らの声援で驚くことにアンディは再び息を吹き返す。アンディはそれを三度も繰り返した。こんな奇蹟を目撃し、あらためてアンディの凄さを思い知る。

 周囲を見渡すと、死を見慣れているはずの医師や看護婦まで心を打たれ泣いているではないか。アンディはそんな人までも感動させる、やはりスーパースターだったのである。しかし、心拍数が四度目の0になった時、壇教授がついに「これでもう休ませてあげましょう」と言った。
 最後まで自分からギブアップしなかったアンディの闘いは、ドクターストップで幕を閉じた。

 2000年8月24日午後6時21分一一それは、実にアンディらしい最後だった。打たれ続けながらも、最後まで立ち上がってきたアンディ。もうこの相手にはさすがにリベンジできないと思ったが、そうではなかった。

 アンディは息を引きとった後、「正道会館」の空手衣に着替え柩の中へと入っていたのだ。たしかに、35歳という年齢は早すぎる生涯だったかもしれない。しかし、アンディはトップファイターの5倍も練習し、5倍の速さで人生を突っ走った。神はアンディを俳優にせず、空手家、武道家として人生を全うさせた。

 そして、空手衣を着て、再びあの世で白血病に対するリベンジに向かったのである。そう思わなければ、この男の人生は悲しすぎる。あまりにもドラマチックなアンディは、20世紀最後の伝説となった。

 

 

 

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