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毎月4日発売

TV野性時代


「日経エンタテインメント!」にタレント本の
書評「本と誠」を連載することになった。
もちろん、商業誌であるから、字数制限はギチギチにある。
わずか1600字で2冊をとりあげなきゃならん。
んで、ネット版には、雑誌発売日と半月遅れで、
字数制限なし版、を連載することにした。
もちろん、単行本化の時には、さらにバリバリに書き足す。
だから、俺が書いている本と同じ本を読んでの感想、
ここの箇所は好き、引用して欲しいなどの注文は、
バンバン活かします。 感想求む。(01.8.3 水道橋博士)

第1回 矢沢永吉著「アーユー・ハッピー?」
第2回 いかりや長介「だめだこりゃ」、長嶋一茂「三流」
第3回 小林よしのり「ゴーマニズム宣言」、「新しい歴史教科書」
第4回 吉田豪「男気万字固め」、山城新伍「おこりんぼさびしんぼ」
第5回 飯島愛「プラトニック一一」、勝俣州和「ごちゃごちゃ一一」

第6回 石原慎太郎『国歌なる幻影』


東京都が経営するMXテレビ
『Tokyo Boy』という番組で
俺たちは石原慎太郎都知事と番組を
共演させてもらって3年目になる。

この番組、鬼才・テリー伊藤の演出による、
硬軟話題を取り混ぜた東京都の
広報的なバラエティー番組である。

当初、私服の西部警察のようなSPに囲まれ、
飛び込みでスタジオに入ると、
文字通り分刻みのスケジュールをこなし、伝法な口調で
「こんな企画はつまんねぇなぁ!」などと言いたい放題で
帰っていく都知事の印象は、あまりに大物過ぎて、
我々には近寄りがたいものであった。
 
それも当たり前のことである。 
考えてみれば、政界再編正ともなれば、
次期総理とも噂される日本の要人である。
また、よく「時代の寵児」と言う言い方があるが、
その選ばれし存在として、
戦後半世紀を常に第一線に君臨しつづけた人物なのである。 

しかし、俺にとって氏のイメージは、
「裕次郎の兄」であり
「アオシマの後」であり
「気象予報士の父」であった。

そして、よく知る知識として、
1955年、23歳、史上最年少で芥川賞を受賞したことで、
今なお伝説的である「太陽の季節」の作者である。 

以後、作家としての著作は膨大でありながら、
実を言うと俺自身「太陽の季節」はおろか、
裕次郎没後に兄弟愛を描いた私小説の「弟」以外の作品は
一冊も読んだことが無かった。
 
あまりに「高名」であると言うことは、
その人に対し無知であっても、
まるで昔から知っていたかのように 平気になるものである。
 
さらに言えば、都知事の政治家としての経歴も、
週刊誌レベルの知識しかなく、
いわゆる自民党の「タカ派」と言われる強権主義者と、
ただ漠然と思っていた。

そういう意味で番組のなかで、
都でも懸案になっているカラス退治を取り上げ、
アイデアを募集し、カラスパイを作って食べた際、
さすがタカの天敵、カラス、
俄然、知事が躍起となっていた姿は印象的であった。

また、ある時は、子供の悩み相談企画で、
玉袋や松村邦洋が役柄上、ボケると
「真面目にやれ!」と顔色を変えて理不尽に怒る姿に
予断通りのマッチョな存在感を感じたりしていた。
言い換えれば、その程度の関心でった。

それが、ある日、テリーさんが収録の時間に遅れた。
番組は、俺たちと知事と松村邦洋とゲストの飯島愛とで収録。
今更、固い話が出来るわけもなく
「愛ちゃんの携帯番号を知事に教える、教えない」
などと延々と幼稚な話を繋いで一本、終えた。
これでいいのか。
さすがに、この収録を境に考えを改めた。
「石原慎太郎」という戦後日本を代表する高名、絶対的存在に対し、
生身に接する機会がありながら「名前」だけを知っているだけで
無関心に過ごしていくことを、恥じいるようになった。
 
しかし、これは60年代以降の生まれの
ノンポリ世代には共通の認識なのかもしれない。
サブカルチャーに囲まれて育ち、
それらの通史には比較的熟知していても、
政治的な状況にはまったく無頓着、無関心で過ごしてきた世代と言おうか。

俺などは、同じ番組レギュラーでも、
テリー伊藤氏のテレビ番組の実績や、
井筒和幸監督の映画作品に対しては朗々と語れても、
正直言って石原都知事に関しては何も存じあげないままであった。
 
その後、都知事の著作本、
そして数ある石原研究本を努めて読むようになった。
そのなかでも衆議院議員辞職後、都知事選出馬前に書かれた長編、
「国家なる幻影〜わが政治への反回想」(文藝春秋)には
決定的な興味を掻きたてられた。
 
昭和41年、慎太郎34歳、
当時、日本で最も高い原稿料をもらう流行作家の真っ只中、
請われてベトナム戦争取材に出向く。

「おおよそ、ただの野次馬として赴いたベトナムで
 私が体得した至上のものは、国家というものを
 人格になぞらえて考えるという習慣だった。
 結果としてそれが私を日本で政治に向かって曳いていったのだ」

「何より大切なはずの自分の国家と民族の未来についての、
 もはや慨嘆を超えて強く装われた無関心さに私はショックを受けた」


とこの本を書きはじめる。
戦争という、有事に際し、ベトナムの知識層の
戦争及び政治に対する無関心(ノンシャラス)に対し、
直感的に日本にも亡国の危機を察し、
文学者から転身、政治家を志すことになる。

そして36歳、参議院全国区で
今も破られぬ記録的な得票数(3百万票)で一位当選を果たし、
以来、30年に渡る、政治家生活の回想録がこの本である。
 
とにかく、この本、読み物として超ド級、圧倒的に面白い!
今や驚異的支持率の小泉内閣誕生と共に
「太陽の季節」ならぬ「政治の季節」が訪れ、ドラマでも
「レッツ・ゴー!永田町」なる番組も成立する状況ではあるが、
それでも大多数の若者にとって、
リアリティーのない国会や永田町である。

しかし、この本は、この場が、
欲望渦巻くドロ臭い人間劇場であることを、
まるでジェフリー・アーチャーの小説を読むような興奮と共に、
改めて再認識させる。

そして、ヨットマンである石原氏が、
日本国の舵取りに志を持ちながらも、
不本意にも政治の海に漂流する様が、
俺のようなノンポリの門外漢にさえハラハラと興味深く読ませる。

現在、TBSの深夜番組「アサ秘ジャーナル」で、
政治家と対談する機会の多い我々であるが、
自民党の大物政治家たちも、現在の都知事の評価はともかく、
国会議員時代の慎太郎氏の印象を
「政局の中心には、いなかった…」と洩らすことが多い。

それもそのはず、30年の議員生活で結局、大臣経験2回は、
その知名度、能力からしても、乏しい数でしかない。
本人が自民党の派閥政治に背を向けていたことが
主たる原因ではあるが、
今ほど、その政治的な表現が目立たなかった、
その理由をこのようにも印している。

「つまり私は、政界にある限りはかなり巧みで
 悪辣でもある作戦参謀たりえたと思うが、
 他人には私の経歴からして私自身が
 しきりに表に出たがる人間に思われていたようで、
 彼等は私が本質的に物書きであるということに、
 物書きとは何であるかということに思いがいたらなかったと思う。
 私にしてみれば表に立つよりも、
 陰で作戦して他人という役者を存分に動かし、
 その出来を見ているほうが、よほど楽で楽しい」

「総じて政治家達の言葉はすべて退屈だったし、
 実はそれを意のままに操っていると自負もしている
 官僚たちの差し出す資料や説明に思わず身を乗り出すことも
 ほとんどありはしなかった。
 しかしもちろん現出する政治の内の出来事そのものや、
 それにからむ人間たちの態度や、
 その裏のそのまた裏の心理については、
 私自身が自分の想像力を構えて吟味する限りでは
 さまざまに興味がもてた」


当初、政界のなかで、
実行者であるよりも観察者であったのである。
さらに今回、この本を読んで、初めて知ったことが多々あった。

例えば、自らの当選後、
次の参院選では小さいながらも会派を率いることになる。 
そこで、立川談志師匠、
また後に首相にまで登りつめる細川護煕氏の
政界進出に一役買っていたことなど、今まで知らなかった。


思えばあの選挙で私が抱えた細川と立川という
二人の候補者はいかにも対照的だった。
片方は堂上公家の末裔、
片方は庶民的なのは当たり前の咄家、
古典落語の素養の支えがなければ
後はただの破滅的八方破れの非常識な気質の芸人で、
この男が落語の世界だけでなしに世間一般で
これからいったい何をやるのかは見当のつきかねるところがあり、
それがまた彼の魅力でもあった。



談志師匠の政界進出のよもやま話はあちこちで語られているので、
ここでは触れないとして、その後、この細川殿さまの初選挙の顛末、
街頭演説の様子など、志村けんのバカ殿のコント級の爆笑ものである。


(石原が、細川の演説を聞き)
二、三度聞いていて当人の自己紹介を兼ねた
御披露目の挨拶がいかにもぎこちなく下手くそなので、
私が作文して…。


と、当初は新人候補に手を貸していたのだが…。
細川候補推薦の立会演説会で。

私の話には人々は立ち止まってくれるが、私が話を終えて、
(中略)
細川などという見慣れぬ候補者を眺めただけで
聴衆があらかた散ってしまうのだ。
(中略)
さすがに候補者当人が、
「石原さん、今度から演説は僕に先にやらせて下さい。
 折角、人が集まっても僕の話を聞いてもらえないと
 意味ありませんから」
(中略)
ということで前回までと違って真打ちが私となり、
その前座で細川氏が話し始めたが
(中略)
話が進むにつれて私としては思わず、
真横で叫んでいる候補者の顔を、最初は遠慮がちにちらちらと、
その内には不安というよりは
たまげてまじまじと眺めなおさぬ訳にはいかなくなった。
(中略)
それはそうだろう、
私の真横で細川候補が大声でやっている演説の内容たるや、
つい先刻まで私が池袋、新宿、渋谷でやったと
全く同じ内容なのだ
(中略)
私の演説の内容が仮に十章節で成り立っていたとして、
この男はいったいどこまで人の話を使うつもりなのか
と思っていたら、話の折目折目に入れていた軽い冗談、
ここではという力のいれ具合まですべて同じで、
私としては最後に彼自身の何かメッセイジがついて
終わることだろうと思っていたら、
しめくくりの言葉までそっくりそのままだったのには、
愕然としかつ度肝を抜かれた。
聴衆の拍手はなかなかのものだった。

それはそうだろう、こちらとしてはあちこちで繰り返しながら
ブラッシュアップしてきた話なのだから。
が、その途端、司会が間を置かずに、
「それでは我々新しい世代の会の会長、
 前回の選挙ではみなさまの熱い支援の下に
 トップで当選させていただきました、
 石原慎太郎を御紹介いたします」
ということで改めての期待の拍手で迎えられ、
細川候補がバトンバッチするマイクを手にして
一歩進みだしてはみたが、十の内十とも話し尽くされてしまって
今突然他の何を話していいのかにわかに言葉も出てこない…」


しかし、この場面、笑う。
あの、都知事の目をパチパチする癖が目に浮かぶ。
その後、細川氏は、石原派閥に入らず、
政治家として独自の道を歩み、後に総理にまで登りつめる、
しかし、石原都知事、この細川の殿様には、
よほど、腹を据えかねているのだろう。
その後も、バッサ、バッサと斬りつける。
 
「日本の関わった戦争はすべて間違いであった
 などという首相としての彼の発言にしろ、
 最初の訪米で代案もなしにただ見得を切ってのNОの連発にせよ、
 そうした発言の根底に当人自身の歴史観なり、
 独自の価値観があるというものでは決してない。

 自らの政治的IQの低劣さ、
 というよりその欠如を糊塗するための言動で
 国家の名誉や利益を無視、
 というよりそれに気付くこともなく過ごされたのでは
 たまったものではない」

「新進党の最初の党首に羽田氏を退けて海部氏を据えた時、
 黒幕の小沢氏が「担ぐなら軽くてパア」がいいと言ったと
 同じ原理で作られた細川内閣をあてがわれる国民の不安と
 不幸の代償を、政治はいつまでかかって
 どう支払うつもりなのだろうか」

「彼(政界フィクサー)がかつて馬鹿に熱烈に
 細川首相を担いで回っていたのを思い出し、
 『いったいなんであんな男をあんなに担ぎ回り、
  今も期待していると語って憚らぬのですか』と質したら、
 なんと言下に、
 『それは君、あの男は馬鹿だから』応えたものだった。
 そして

 『馬鹿は馬鹿だからどういうこともよく聞くものだよ』」

と、ここまで、悪し様に書いているのである。

細川の殿様に限らず、この本の政界人物評には、
歯に衣着せぬ、メッタ切りの連続である。痛快!
 
都知事の若き日の血の気の多いやんちゃな部分も面白い。
例えば、参議院時代、議長選挙で、
長年威張りくさっている老議長に一泡ふかせてやりたいと考え
多数派工作を図るのだが…。

正攻法では、無理だと知ると、
手段を選ばずスパイ行為や、
電話交換手の買収行為の果てに、

「裏切りに傾いている、ある議員なんぞは
 ホテルの目のつかぬ片隅に拉致していって、
 胸の内ポケットにさしていた万年筆を抜いてキャップを外し、
 ペン先をナイフのように見立てて相手の顔すれすれに突き出し、
 ここで裏切らぬと誓わなければ
 このペン先で目玉をくりぬいてやるなどといって
 脅しもしたものだ。

 相手はどれももういい年の議員だし、
 はるかに年の違う私の思いも掛けぬ粗暴な、
 というより直截に暴力的な行為は連中を仰天させたし、
 なにしろこちらは彼がどんな電話をかけたのかまで
 知っているのだから、それを仲間にばらされれば、
 年寄りとはいえ男としての面子は立つまい。
 結局みんな青ざめ震えながら私のいう通りになった」


と書いている。
いやはや武闘派だ。
まさに、これぞ、ペンは剣より強しだ。

その他にも、例えば慎太郎氏が、
田中金権政治に対しペンを剣に闘った最初の一人であったことも、
俺は今まで知らなかった。

都知事が、1974年に文藝春秋に
『君、国売り給うことなかれ』と題した
田中金権批判論文を発表したのは、
立花隆の『田中角栄研究』の2ヶ月前である。

また、同時代を生きた文学者、三島由紀夫は、
石原氏を政治に導く切っ掛けの一つとなる手紙を書くほどに親密であり、

「(中略)私を政治に導いていったもの、
 というよりその水口を開いてくれたのはあの手紙だったともいえる」

 
そして恩義もあった。

「氏は私にとっていろいろな意味で大切な存在だったし、わけても、
 私の大切な理解者、という以前に本質的な発見者だった。
 私自身はいわば時代の恩寵を受けて、
 自分でも思いがけぬ形で物書きとして世の中に登場したが、
 登場した私も登場させた世間も過分に無意識なところがあった。
 三島氏はそんな私について怜悧で正確な分析をほどこし、
 無意識な時代と世間を相手に有り難い証人と
 弁護人になってくれていた。
 氏は私の最初の選集の解説を自ら買って出てものしてくれたが、
 その慧眼は政治という文字を一つも使わずして
 私の将来の政治参加を予見もしてもいた。」

 
しかし、その後、三島氏も「楯の会」などを結成し、
政治に関与してくると、石原氏の政治姿勢に対し、
「士道について」と毎日新聞に公開質問状を送りつけ、
それに対し石原氏も、「政治と美について」とその反論を書き、
文士が激しく鍔迫り合いを繰り広げる。

そして、その同じ年、70年、三島は、自死する。

「三島氏は氏自身への政治へのコミットメントで
 自らの生命までを犠牲に供した。
 その行為は政治における効果として考えれば、
 痛ましいほど無駄に近いものとしかいいようないが、
 しかし氏がその自決によって披瀝した
 この日本という国家の本質的な危機への分析と予言は、
 すべて正当なものだった。
 その故にも私は氏のああした死に方を咎めぬ訳にはいかない」


と書いている。
さらに自民党内の若手改革派、として旗揚げした
青嵐会の盟友であった、政治家、故・中川一郎との
密なる交流とその自決を、無念に見送る様は、

「それにしても、中川一郎の突然の死というのは
 いったい何だったんだろうかと改めて思う。
 その確かな死因についてだけでなくて、
 ああした魅力に富んだ一人の政治家が
 志の半ばで非業の志を遂げなくてはならぬという
 政治の陰の仕組み、
 それにからむ気が遠くなるような量の金と、
 その驚くほど薄い効用との対比の不条理さ。
 そうした虚構は、現今の日本の政治にとって
 何が致命的な主題であり、政治家が人間として何を思い、
 何に腐心し、何をこそ行わなくてはならぬかということを
 露骨に疎外してしまう。
 (中略)
 これはしょせん負け惜しみに違いないが、
 私がもし中川や田中角栄以上の金銭獲得能力に
 恵まれていたとしたなら、
 私はもっと貪欲に権力を志向し執着し、それを獲得することで
 この国のためにもっと役にも立てただろうとつくづく思うが」


と惜しむ。

さらに、同い年で、最年少で選挙時に最高得票を得た
フイリッピンの青年政治家、アキノ氏との長年に渡る
国境を越えた友情のくだりは、この本の見せ場である。

そのアキノ氏がマルコスの独裁政治に抵抗し、投獄されると、

「彼等からの情報には、アキノが収監されている
 監獄の見取り図だけではなしに、
 監獄のある入り江の水深までが記されてあった。
 そして、もし何らかの船を仕立てて侵入することが出来れば、
 後は自分たちが手引きして彼を救出させ、
 船で国外にも連れ去ることが出来るだろうと。

 そうした機密の情報の往復は
 私の想像力をかき立てぬ訳にはいかなかった。
 もしそれが彼等のいう通りに可能なことならば、
 彼を獄の中から救出していずこかへ連れ出し、
 その後は彼に決断させて、かねて私がいってたことを
 彼に強いてでも実現させる絶好の機会だった」


などと、007映画もどきの救出作戦の絵図を空想するのである。
さらにアキノが、亡命先のアメリカから、
故国へ帰れば必ず狙われる「予告された暗殺」を知っていながら、
帰国の意志を固める。
二人が、電話で交じわす会話は身震いものの、
ハードボイルドだ。

「俺はな、病院でも、アメリカでも死にたくはないんだ。
 死ぬなら自分の国で死ぬよ」

長い沈黙の後、

「OK」

自分にいい聞かすように私は答えた。

「今なんといった」

「OK、といったよ」

「それだけかい」

「ただ幸運を祈るよ」

「OK。ありがとう。じゃ、さよならだ」

 
その翌日、空港で11年ぶりに祖国の地を踏むと同時に、
アキノは頭を撃ちぬかれた。
しかし、その死は、無駄ではなかった。
この象徴的な死から9ヵ月後に独裁者マルコスは、
国外逃亡することになる。

「親しい人間の死について
 あのように感じいったことはかってなかった。
 (中略)
 私たちを結んでいたものは政治家としての、
 それ以上に男としての信頼と共感だった。
 それは皮肉なことに、私が日本の政治の中では
 決して与えられず味わうことのなかったものだった。
 そしてそれは私にとって、私自身も参加することの出来た
 人間の完璧な劇そのものだった。」


都知事は、細胞レベルで、
自らの政治生命に小説以上の劇的なものを望む意志があると言えよう。
だからこそ、政治家に転身したのだろう。

その他にも、沖縄の基地視察で、目撃する核兵器のくだりや、
アメリカに追従しない「NOと言える日本」の米国出版話。
大韓航空機撃墜事件や湾岸戦争の本質などなど、
骨太な国際的ポリティカル小説の舞台を彷彿する箇所も多々ある。

無論、今、こうした引用で論じるに足りるはずもないが、
この本は、辛辣な日本人論、国家論、文明批評本でもある。
この慎太郎氏の意志ある軌跡を追いかけることは、
自分自身がまぎれもなく日本人であることの確認作業でもあった。
 
俺はハードカバーで読んだが、
丁度、この10月に文春文庫の新刊で上下2冊巻、
千頁のボリュームで書店に並んでいる。
 
さて、この本にはすっかり魅了され、
ここまでの長編を数日、長時間かけて読み通してみると、
何やら感慨深く、また、都知事に対して敬意と強い関心を感じ入った。

そして、『Tokyo Boy』収録の際に、
都知事に思い切って話し掛け、本にサインを求めたところ…

「おう、読んだのか、いい本だろ。
 サイン?で、君は名前は何?」
と聞かれたのだった。
 
嗚呼、3年間、番組でご一緒させていただきながら、
俺、名前すらおぼえられていなかった!

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